立派な病気
  
 いつの頃からだっただろうか、主にテレビドラマの中での会話だったと思うのだが、「万引きは立派な犯罪です」というような表現が時々聞かれるようになり、そのたびに犯罪に立派なものと立派でないものがあるのかなどと少しばかりへそを曲げながら聞いていた記憶がある。

 もちろん「明白な犯罪」、「人道的にはもちろんのこと法律にも抵触する犯罪」という意味で使っているのだということは分かるのだが、それでもそうした表現そのものの中に日本語としてどこか変ではないのかとの思いが拭いきれないでいるのである。

 ところが最近同じような言い方が「病気」という表現にも使われるようになってきた。例えば「引きこもり」であるとか会議中の昼間から眠くなってしまうことなど、これまで本人の自覚が足りないとか、不注意だなどと思われていた現象が精神医学の進歩で解明されてきており、病気の一種であることが徐々に分かってきたようである。そうしたことで従来あまり病気と認識されていなかった様々な症状について、「○○は立派な病気なんです」などと言われるようになってきた。

 だが、単純な考えかも知れないが、立派と言うのは広辞苑の「美しいこと、みごとなこと、すぐれていること」を持ち出すまでもなく、「賞賛する」というような意味に使われるのが一般的であり、「立派な行為」であるとか、「立派な主張」、「立派な人」などという表現が私の語法の中に染み付いている。

 それを「立派な犯罪」とか「立派な病気」というような、「確立された犯罪・病気」という意味に使うのはどこか変なのではないだろうか。

 犯罪や病気の中に立派だとか立派でないという区別・差別を持ちこんでくるから変だ、と言いたいのではない。「立派」という語をつけなくたって、「万引きは犯罪です」、「引きこもりも病気の一種です」と言うだけで十分に通用するのではないかと思うのである。

 「立派」という表現を使う人は、恐らく万引きという行為を、「裏山へフキを取りに行くことと同じようなことだ考えている人がいるかも知れませんが、それは間違いです」、「引きこもりは本人の自覚の足りないことによるものだと思われがちですが、それは違います」という意味で使っているであろうことは十分に分かる。

 だがそうした用法の意味を十分に分かりつつ、どうしても「立派でない犯罪」、「立派でない病気」というフレーズがこの表現にまとわりついて離れていかないのである。

 この立派表現がきっかけで、かつて学んだ行政事件訴訟法の講義を思い出した。行政処分に不服がある場合、通常は当該処分をした行政庁に対して不服の申し立てをしなければならず、それでも解決しない場合、最終的には訴訟で決着をつけることになる。

 そうした場合、裁判所に何を求めるのかが問題になるのであるが、そうした不服の形態を分類する中に、「有名抗告訴訟」・「無名抗告訴訟」という分け方があった。

 熱心に講義する教授は当然のこととしてこの二つを使い分けて説明しているのだが、私には最初、どうしても「有名」の意味は「有名人」のそれであり、「無名」とはその反対に位置するものとの認識が抜けきれなかった。

 結論として、「有名」とは法律に「処分取り消しの訴え」などといった不服の形態に名前がつけられているものを言い、法が予定していなかったけれど認めなければならないと考えられるもの、もしくは認めるべきではないかと議論されている訴訟形態、つまり法律の条文に名称がつけられていない不服の形態に「無名」の語を付与したということで理解がついた。

 最初私はこの「立派」にそうした意味があるのだろうかと考えてみたのであるが、どうもそうではないらしい。ただ意味としてはかなり似ていて、「立派」とは法定されているものまたは社会的に承認されるべきものという内容を含んでいるのだいうことは理解できた。

 ただ、そうは思いながらも、「立派」という言葉の中にはそうした意味は含まれていないのではないか、そういう意味を含めて使うのは間違いなのではないかと、今でも時々出てくる「立派な病気です」という表現を聞くたびにしつこく思い続けているのである。

 そして更に、病気だと宣言された症状は、宣言したほうも宣言されたほうもそこで一区切りしてしまうのではないかと、そのことも気になるのである。

 つまりそうした宣言が、もし「病気なんだから私のせいではない」とか、「病気なのだとしたらそれを治すのは医者の仕事だ」などと思い込ませるような方向に向かわせしまうとするなら、現代の他人(ひと)まかせの風潮の中で「直らないのは医者が悪いから」であり、「治療方針の確立していない社会が悪い」などと言った考えを助長していってしまうのではないだろうか。

 「病は気から」などと、なんでもかんでも自助努力に押し付けるつもりはないが、他人まかせがはびこってきている中で、「私は悪くない」という考えに固執させることはには疑問があり、やっぱり自分で認識することや家庭などの中で解決する手段を改めて考えて見る必要もあるのではないかと思っているのである。

 今日は近くの琴似神社のお祭りで、おまけに事務所向かいの琴似小学校では運動会です。そのせいでしょうか、朝から時折「ドーン、ドーン」と号砲の花火の音がします。一時間ほど前、区民センターの図書館へ借りた本を返し新しい本を借りに行ったついでに小学校のグランドの横を通り神社まで足を延ばしてきました。境内では今では懐かしいチンドン屋が演歌を披露していました。

 昨日で三月決算法人の申告書作成の仕事が終わりました。これからは少しのんびりできる期間が続きます。JR琴似駅まで続いている露天でも冷やかしながらゆっくり帰ることにしましょうか。


                          2006.05.27    佐々木利夫


  附 今朝(5.28)の朝日新聞「ひととき」に掲載された79歳の老女からの投稿の一節である。「私もあと3ヶ月あまりで80歳・・・、立派な高齢者なのである」とあった。「立派」と言う語はここまで広がってしまったのか、それとも私自身もあと十数年歳を重ねることで自動的に「立派な高齢者」になれると信じるべきなのか・・・・、なんだが少し混乱してきているのです。



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