いま、五木寛之の「林住期」(幻冬社文庫)を読んでいる。我が身の一生を学生期、家住期、林住期、遊行期の4つに等分し、それぞれを充足した期間としてその生き様を考えようとするものである。著作の対象は、恐らく人生そのものの先行き不安に駆られている中高年向けということになるだろう。そうした発想がまるで分らないというのではない。だかこうした年齢に区切りを与えて、その時々における努力なり目標を掲げるような発想というのは、どこか独断というか独りよがりが見え見えで素直についていけないものがある。

 もちろん、そうした理解をされてしまうかも知れないとの思いを著者自らが抱いていただろうことは、次のような書きぶりからも想像できないではない。

 「今回、私はこの本のなかで、ずいぶん乱暴なことを書いたような気がする。読者のなかには、苦笑なさるかたもおられることだろう。また、なんと過激なと眉をひそめる向きも、いらっしゃるかもしれない」(同書P320、「あとがきにかえて」)

 それでもなお私は、彼の考えにどこか違和感を抱くのを避けられないでいる。語っていることが間違いだとは思わない。思わないどころか「もっともだ」とさえ感じている。「そうありたい」とも思っている。それにもかかわらず彼の考えは、なぜか私の心にすとんと落ちていかないのである。

 「義務とは他のために献身するすることだ。『家住期』において十分にその義務を果たし終えた人間は、こんどはまさに自己本来の人生に向き合うべきだろう」(同書P70)

 家住期とは社会人として就職し、結婚し、家庭をつくり、子どもを育てる時期をいう。そうした「人生まっ盛り」として理解されてきた世の中の平均的な人生観に、ちょっとまて、と異論を唱えたいのが著者の目的であろう。働くことが人生の目的で、定年退職後は余生として過ごすような風潮に一石を投じたいと彼は考えたことが理解できないではない。そのことは分る。青春と壮年で人生の目的が終わってしまい、そのあとは余生や隠居として「老いては子にしたがえ」などとちんまりと、そしてつつましく暮らすなどは、現在の定年制度や平均余命などから見て、その人の生涯としての人生を語ることに異論はあるだろう。

 ただ著者が話しかけている対象者が、私には「平和で安全で、しかも安泰した生活をゆったりと過ごしているのんびり世帯」に限られているように思えてならないのである。そうした世代がこの世の中にいないというのではない。いるだろうし、場合によってはある程度の多数を占めているだろうことも分らないではない。

 それでも私は、そうした環境にいる人には「そんなこと自分で考えろ」、「自分で努力しろ」、「人任せにするな」、「他人から示唆されたり言われたりしてやるもんじゃないだろう」といいたいのである。

 「準備の時代だ。心身を育て、学び、経験を積む。それは次にくる「家住期」のためのトレーニングの時間である」(同書P71)

 彼は学生期をこんなふうに定義する。それはそれでいいだろう。だが、そうすることがどんな場合も正しいのだといっていいのだろうか。この期間を家住期へのトレーニング期間として、蓄積し我慢し努力するだけが正義だと言ってしまっていいのだろうか。そしてもしそれに反するような行動や生き方を選ぶことは、間違いとして叱責され、また彼の言う家住期において失敗した人生として報復を受けるのだろうか。

 「『林住期』には本当にしたいことをする」(P71)
 「『林住期』という第三の人生を、心ゆくまで生きるのが人間らしい生きかたなのだから」(P75)


 こんなふうにいわれてしまったら、人生の目的やその味わいは「林住期」のみにあって、それに向かって努力する以外のどんな思いも誤りになってしまうことになるのではないだろうか。もちろんそうした方向を否定するつもりはない。功なり名を遂げて、それでもなお仕事や金銭に執着するよりはゆったりとした人生を味わいたいとする方向へかじを切ろうとする人たちへ向けた彼の言い分が間違いだとは思わない。でもそれはそうした人生を選択できるだけの金銭的にも家族的にも、そして精神的にも余裕のある人への思いに限られるのではないかと思うのである。
 いやいや、もっと極端に言うなら、「食うこと、寝ること、住むこと」になんにも不自由をしていない豊かな人たちに向けた暇つぶしへの助言のような気さえしてくる。

 「定年退職する10年前から、自己本来の生きかたの設計と、その準備を始めておかなければならないのだ」(P76)
 「『家住期』、すなわち社会人のあいだに、しっかりと資金をたくわえておく」(P80)
 「配偶者のことも考えておこう。・・・ちゃんと生活できるように手をうっておかなければならない」(P80〜81)


 もちろん彼がそのように思ったところで否定はすまい。ただ、世の中には目の前を生きることに必死な人たちが溢れるほど存在しているのではないかと、私は思う。自らの老後の充実した行き方のために、若いときから知識や財産を蓄え、いざというときに備えて配偶者や子供たちが生活していける環境を整えることの必要性は、家庭という人生を選択した者にとっての使命かも知れない。

 だが生活保護に頼るしかなかったり、ネットカフェや駅の通路や講演のベンチで夜を明かさなければならない者、かろうじてそうした状態から脱却できたとしても非正規労働やアルバイトなどの不安定な環境に甘んじなければならない人、そんな人たちが今の世の中にはそこかしこに溢れている。

 それらの多くの人たちへ、そうした現況は自身の責任にあるのだと私には言えないような気がしてならない。明日食う米がなく、今日の深夜喫茶での夜明かしのための金がない者の耳に、「定年」だとか「自己本来の生きかたの設計と準備」などという言葉のなんと空疎に聞こえることだろうと私は思う。ましてや「しっかりと資金を蓄えておく」ことや、結婚そのものを諦めざるを得ないような状態の下での「配偶者の将来の生活」なんぞの一言は、助言ではなくSFの世界のできごとを求めているかのようである。

 「(金がなかったら)『林住期』を、放浪の聖のように生きるという決意だ。捨てる生きかた、とでもいおうか」(P83)

 そして私は彼のこの言葉の中に、どうしょうもない無責任さを感じてしまったのである。彼はここで家族や友人などなど自らを囲んでいた他者すべての否定、つまり「自分以外を一切合財捨ててしまう」ことを宣言してしまっているからである。捨てるのは単に人間関係だけではない。「放浪の聖のように生きる」とは、私には財産とも人間とも無縁な仙人になるように感じてしまったのである。

 それはそれで自分の選択した道なのだろうから、他人がとやかく言うことではないかも知れない。でもそれは、「我が身一人しか見ていないエゴ」でしかないのではないだろうか。放浪する聖として残る人生を過ごす選択に、本人は満足(もしかしたら、金がないことによる強制的な諦め)しているかも知れない。しかし、そうした聖者の選択をした者にこれまで付き合ってきた配偶者や子供や親戚知人などなど多くの人々は、突然に投げ出されてしまうのである。聖者となって悟りの世界に飛び込むというわがままな一人の人物のために、とれだけ多くの人たちが迷惑を被ることだろうか。

 聖となって放浪するとの決断は、まさに「捨てる側の論理」である。そこに「捨てられる側への配慮」なぞ微塵も感じられない。わがままで身勝手な思いでしかない。影響される他者が十分に今後の生活を充足でき、精神的に安定した生活を送れるだけの準備をした後に聖者となって放浪するというなら分らないではない。でも彼の放つこの言葉の意味は、むしろ「準備できていない」人に向かっての一言である。

 もちろん、彼が書いたのはその文章に金銭を支払ってくれるであろう人に向けてなのかも知れないから、ホームレスやコンビニ強盗でもしなければ生活できないと思い込んでいるような者は、対象とされていないのかも知れない。本を読むのは、本を購入して読めるだけの時間のゆとりを持てる人であり、彼の文章を理解できるような知識をもつ者であり、そして人生にプラスアルファとしてのゆとりが欲しいとのもやもや感を抱いている人たちだろうから、そんな読者層を対象にした思いなのかも知れない。
 そう理解をしつつも彼の意見は私には、「食う寝るところに住むところ」に何の心配もなく、そして林住期にあってゆとりある生活環境に安穏としている者たちへの、一種の贅沢さに迎合した考えのように思えたのである。


                                     2013.3.20     佐々木利夫


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林住期を読みながら