それは世の中がバブルと呼ばれる時代を経て、世の中全部が浮かれ騒ぎ、祭りの後のように呆けたようになってからのことだろうか、人がだんだん我慢というのを、しないというか、できないというか、そんな風に感じだしたころから、こんな題名の絵本を幼かった子供に買ってやったことを思い出した。
そしてなんでもかんでも食い尽くしていく現代の風潮が、なんとなくこの物語のストーリーに似ていると思いつつも、内容をあんまり良く覚えていなかったものだから、そう言えばあのおなべの結末は一体どうなったのだろうかと気になりだした。
「家にあるはずだよ」と、もう2児の親になった娘は言うが、自宅を探してもすでに処分してしまったらしく見当たらない。、幸い近くの児童図書館で見つけることができたので読み返してみる。
働くのがいやになつた片手なべのお婆さんは、ねずみの持っていたソーセージを皮切りに、めんどり、きゃべつを食べ、川の水を飲みどんどん大きくなっていく。
とまと、じゃがいも、そしてきつねを食べ、雌牛を食べ、そのたびにおなべは大きくなってゆく。
飢えはとどまるところ知らない。川から海へ出たおなべは魚を食べ尽くしとうとうくじらを飲み込んでしまうが、それでも飢えはおさまらない。
おなべはどんどん大きくなり、やがて宇宙へ飛び出すところでこの物語は終わる。
作者の優しさは、途中で出てくる猟師や釣り人などの人間をおなべに食べさせなかったこと、くじらの次におなべを宇宙へ出してしまうことで地球をその腹に入れることをさせなかったことに表れていると思う。
でも絵本としてはふさわしくないかも知れないが、物語の普通の順序としてはやはり雌牛の次は人間を食べてしまうことになるのだろうし、くじらの次には地球を食べるというのが普通だろう。そしてそれでも尽きない飢えが宇宙へと向かわせるというのが順当なのだろうと思う。
この物語は、満足できない人間のイライラを表したのか、欲望の際限のないことを示したのか、作者は「満たされぬ女の乾き」だとあとがきに書いているけれど、1970年に作られたこの物語が、この歳になつてどうにも気になりだしてきている。
拒食症も過食症も原因は共通しているというし、買い物依存症になったり不必要なのに万引きを重ねたり、そんな極端でなくても、ブランドに群がりダイエット至上主義に陥っている女性の姿もどこか異常だ。
洋服ダンスには衣類が溢れかえっており、冷蔵庫も満杯である。燃やせないゴミの日や大型ゴミの日の路上にはまだ使えるものが無造作に捨てられている。そんなになっても人は常に飢えており、まるで「はらぺこおなべ」のように満足できないでいる。
「人はどこへいこうとしているのだろう」などと小難しい話は別にしても、この時代は、我慢することを美学の一つに加えている我々世代と、消費を美徳と考えている次世代の隔たりがあまりにも大き過ぎ、小さな自分の中では解決できないまま、もやもや戸惑っている。
そういえば最近スローフード、スローライフなどと言って、食べることの意味を考え、ゆっくりと経過する人生を考えようとするような風潮が出てきた。
こんな世知辛い時代、そんなスローでは競争社会に生き残れないと言われればそれまでかも知れない。しかし、使い古された言い回しだけれど「忙しい」という字は「心が亡ぶ」と書くと昔誰かに言われたことが妙に納得できる。
追いかけたり追いかけられたりする日常から少し距離を置いてみると、「満足」なんていうのは、けっこうそこいらにゴロゴロ転がっているという気がする。
はらぺこおなべのように食べるたびに欲望が膨らみ、飢えだけがとどまることなく膨れ上がっていくような状態は、なぜかとても哀しい。
「少し足止めて、小さな満足をさがしてみる」、そんなことでけっこう満足というのは身近に見つけられるものだと最近実感している。
この小さな一人の事務所は、それができるささやかな空間でもある。
2004.1.24 佐々木利夫
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