善意と甘え


 年をとってくると、自分とは異なった考え方に対する、許容範囲というか気持ちの余裕というか、そんなゆとりが欠乏してくるのだろうか。テレビでも新聞でも本でも、私の自分勝手流に言わせてもらうなら、「一体世の中どうなっとるんだ」と思えることがどんどん増えていっている。
 そうしたことは、最近の自分の「ひとり言」の発表でも、「思いつくままに」よりも、「どこか変だなと感じること」のほうが多くなっていることから、うすうす気づいていた。

 今日もそうである。今朝の読売朝刊の中学校の生活指導の教諭の「子どもの心」という報告にかちんときてしまった。
 絵の大好きな中二の少女の美術作品の提出が二日遅れた。美術の教師は、「ごめんね。もう、成績つけ終わったんだ。頑張って描いたのは分かるけどその絵を受け取るわけにはいかない」と告げた。
 少女は生活指導の先生に「成績をつけてもらおうと思って持っていったのではない。一生懸命描いた絵を見てもらいたかっただけだ。なのに受け取ってもらえなかった。・・・子どもだって、思いが伝わらない時、傷つくのです。」と嘆くのである。そしてその教諭は「生徒を見るということは、点数化することではない。・・・心の眼で見られるような教員になりたい。」と、この投稿文を結ぶのである。

 さて、これからはこの投稿を読んだ私の勝手な想像である。想像だから投稿者の意図とは異なって間違って理解しているかも知れないし、そうだとするならば、これから述べる私の理屈はすべて覆ることになる。

 そんな危険を承知の上で、あえてこの少女の「成績をつけてもらおうと思って持っていったのではない」という言葉は嘘だと思うのである。
 本当に成績評価とは無関係に、純粋にその絵を見てもらいたかったのだとするならば、もっと別の提出方法があったはずである。筆者はこうも言っている。「少女は一生懸命描くあまり、完成が遅れ、提出日を二日過ぎてしまったのだ。・・・彼女はそれを持って、美術の先生に恐る恐る会いに行った。」と。

 恐る恐る会いに行く必要はないであろう。彼女の言葉を信じるならば、「成績評価のための提出期限を過ぎたことは、自分の責任として認識している」のであるから、当然にその作品が「成績評価の対象にならない」ことは了解しているということになる。

 それでは彼女はどうしてその絵を美術の先生のもとへ持っていったのだろうか。成績評価のためでないというなら答えは一つしかない。その美術の先生の絵を見る力を信じ、その美的評価に基づいた自分の絵の実力を知りたかったということである。
 そうであるなら、「遅れたことのペナルティとして成績評価を放棄する」ことを美術の先生に伝え、その上で「成績を離れての作品の評価」を依頼すべきであったろう。それが正しい提出の方法である。先生に対する評価の依頼の正しいやり方である。

 絵の美的評価と提出期限とは何の関係もない。だから、期限を過ぎたからといって、その絵の価値そのものが影響を受けることはあるまい。
 だが、一定の期限を定め、その期間内の作品に限って評価するというシステムもまた、社会が多様な価値観を持つ人々の集団として成り立っている以上、守らなければならない基本的なルールである。

 だから私はこの少女の言葉に嘘があると言っているのである。だからと言って、私はこの少女を責めるつもりはない。彼女は、「二日遅れたけれども、きっと先生は私の一生懸命に免じて許してくれる。成績評価の対象にしてくれる。」と思って提出したのである。甘えといってしまえばそれまでだし、いかにも現代の少女らしい幼い甘えだけれど、そう思ったことは十分理解できるし、そのことを責めるつもりはない。
 そしてその甘えに対し、美術の先生はきちんとルールを説明したのである。「ごめんね」という言葉を添え、本人の責任の自覚と社会のルールを示したのである。

 わたしがかちんときたのは、この少女の話を聞いて、したり顔と善意を見え見えにぶら下げて今日の文章を書いた、生活指導の先生の態度である。自分を善意の高見に置き、そうした立場からの発言はすべて正義だという思い上がった鼻持ちならない態度である。

 彼女には、「遅れたけれどなんとかなる」という甘えがあった。身勝手なことでも一生懸命を後ろ盾にすれば、他人を感動させることができ、規則を曲げてでも自分に有利な結果が得られるはずだとの、子どもじみた甘えがあった。

 期限に間に合わせるために、彼女以上に努力した人のいたであろうことなんて、これっぽっちも考えないのである。そのことに彼女が気づかないのはまあいい。問題は少なくとも生活指導の教諭は気づくべきだったのである。「美術の先生を責められない」と書いてはいるものの、「少女の精いっぱい生きている姿を受け止めなかったこと」を責めているのは明らかな自己矛盾である。

 同じ今日、NHKの教育テレビで、小学校5年生が新1年生を自分たちだけでどう歓迎するかを計画する番組があった。プレゼントを渡すことを考えたグループがあった。歓迎会の日は迫るのにそのプレゼントの作成が間に合わないのである。そこで他のグループに応援を求めることにする。それでいいのである。どんなにいいアイデアでも、そしてどんなに素晴らしいプレゼントでも、歓迎会当日に間に合わなければダメなのである。二日遅れではダメなのである。

 世の中には「ダメなものはダメ」な場合が沢山あるのである。ましてや自分だけの責任でダメになったことを、この生活指導の先生はきちんと教えるべきだったのである。
 たとえ少女が「思いの伝わらない傷」を受けたとしても、少なくともその原因には彼女自身の責任があること、一方的に美術の先生を責めるのは誤りであること、成績評価を離れて絵を見てもらいたいのであれば別の方法のあることを教えるべきだったのである。

 そのことを教えてもらえなかった彼女、いい子いい子と同情され、美術の先生は生徒を心の眼で見ていないなどと教えられた彼女は、やがて卒業し、社会に出て、大人になっていくのである。そんな大人がこれからの社会を作っていくのである。

 美術の先生のきちんとした対応が、投稿者の甘えで脆くも壊されてしまったのである。大人になっていくというのはどういうことなのか、社会のルールとは何なのか、そうした格好のチャンスと教材をこの生活指導の教諭は、善意の衣に包むという作戦で、ものの見事に壊してしまったのである。

 以前このホームページで、「優しさは無責任」と題する文章を発表した。善意とか良心とか、正義などなど・・・・、批判することがはじめから拒否されているかに見えるこうした言葉の裏に、実はとんでもない落とし穴が潜んでいるような気がしてならないのである。

                    2004.4.27   佐々木利夫

 

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