三方一両損 ご存じ大岡裁きの名シナリオである。 ある町人が三両という大金を拾う。感心な町人はネコババもせずにその金を奉行所に届ける。落とし主はやがて見つかるが、「落としたものはもう自分のものではない」と言って受取りを拒否する。一方拾った方も落とし主がそう言うなら貰っておけばいいものを「拾ったんだから私のものじゃない」と言ってこれまた受取りを拒否する。 この話が史実でないことは明らからしいが、意表を突いた解決策が、「さすが大岡裁き」と言わせるだけの説得力というかドラマ仕立てと言うか、人の心に訴えるものを持っている。 解決策とはこうである。 @ 拾った三両に大岡越前守が一両加えて四両とする。 A この四両を拾った者、落とした者双方にそれぞれ二両ずつ渡す。 B 大岡は一両出したし、拾った者は黙っていれば三両手に入ったのに二両しか貰えず、落とした者は落とさなければ三両残っていたはずなのに二両しか貰えない。 よって三者それぞれ一両損したんだから互いに納得せよ・・・と言うものである。 この解決策の真意は、「金に執着しない」という江戸っ子の気質を、「奉行を含めた当事者のすべてが損をした」という形をとり、しかもその損が「平等である」という形で決着をつけたという点にあると考えられよう。 でも、しかしである。こんな解決が裁判という場でなされていい筈がない。大岡の出した一両が公金であったとしたならば、訴訟当事者の紛争解決のために、例えば証拠調べであるとか、実地検証のための費用というのならともかく、「原告被告に対して裁判をするという以外に何らの責任も負わない裁判所が公金を支払う」というのはとんでもない話である。 つまり、一部にしろ全部にしろ、紛争解決のために訴訟当事者以外の、しかも当該訴訟を解決しなければならない裁判官としての国が公金を支出するということは、絶対にやってはいけないことである。たとえその支出によって両当事者が、しこりを残さず互いに満足する結果を得られたとしてもである。 裁判とは、訴訟当事者の主張の範囲内で裁断すべきものであり、本件のような場合は、三両をどう配分するかに審理を尽くさなければならない。その結果としての判決は、例えば折半でもいいし、一両対二両、二両対一両、はたまたそれ以外の割合でもよく、それは裁判官が事実関係を調べた上で自身の裁量として判定すべきものである。 恐らくこうした裁量による判決では、双方ともその解決割合たる金額を受取りにこないであろうから、この三両は宙に浮いてしまう可能性が高い。それでも仕方ないのである。奉行所が「判決通りの割合でいつでも支払う」という条件でその三両を預かり、取りにこなければその金は預かりの状態を継続させておくか、はたまた一定期間経過後に幕府に帰属させる以外にないのである。 なお、大岡の出した一両が、大岡個人の金だとしても同様である。裁判官の給料の中にこうした紛争解決のための資金が含まれているとは常識的に考えられないし、仮に裁判官が資産家であって潤沢な資金を持っていたとしても、そうした裁判官個人個人の資産内容によって訴訟結果が変わるなどということは、法の安定性の上からも許されないことだからである。 もっともこの話には、ちょうど裏返しのシナリオがあって、当該三両から大岡が一両貰い当事者それぞれに一両ずつ渡す。そして、落とした金は戻ってこないはずなのに落とし主は一両受取り、拾った金はそのまま落とし主に返還すべきが建て前であり手元には残らない筈であるにもかかわらず拾い主は一両受け取る。結果、三方がそれぞれ本来ゼロであるべきなのに一両受け取ったから、「三方一両得」だという結論である。 多分これにより、「三方一両損」の判決を先例とした公金を狙うという訴訟の多発は避けられるであろうから、大岡がこの受取った一両をどう使ったかという興味は尽きないものの、こちらの方が大岡裁きだと言うべきであろうか。 ただ、こうした理屈に合わない解決策が、日本人の心に、江戸時代のみならず現代においてもストンと落ちてきて、奇妙に納得してしまうところに、裁判に対する法と常識の微妙なズレを感じとることができる。
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