サクセスストーリー

 数年前からNHKで「プロジェクトX」という番組が放送されており、人気が高い。中島みゆきのオープニング曲、エンディング曲もそれに拍車をかけ、馴染みのスナックでのカラオケでは、酔った仲間の定番曲になっている。

 この番組は、いわば高度成長期における企業や特定部署のスタッフの成功までの壮絶な闘いのドラマである。男に限定するのは誤りかも知れないが、そのほとんどは男のロマンとそれに向かう忍耐のドラマであり、見果てぬ夢に必死にすがりついた男たちの、ぎりぎりの成功の物語である。

 そして時にその物語は、たとえ己が身を場末のスナックの片隅に置こうとも、仕事一筋に生きてきた自分自身を僅かにしろ重ねることのできる擬似体験のドラマでもある。

 「でも、ちょっと待ってくれ」と、へそ曲がりは水割りのグラス片手にひたすら思うのである。
 確かに青函トンネルや黒部トンネルは開通し不可能を可能にしたし、自動焦点カメラやVHSビデオは企業に多大な利益をもたらした。開発者は報われ、家族からも尊敬され、その成果は彼らを知らない多くの人々の話題にも登場し、そのことで密かに自己満足にふけったこともあっただろう。そして大勢の通行人に紛れて自らが開発した自動改札機を人知れず通り抜ける快感、それも開発者の特権であろう。

 それはいい。我々から見れば奇蹟とでも言えるような仕事をなし遂げたのだから、その評価を満身に受けたってなんの恥じることもないし、場合によっては自惚れたってかまいはしない。
 しかし、そうした成功者の陰にどれほどの敗者がいたのかを、このサクセス(成功)ストーリーはひとつも語ってはくれない。

 マラソンの高橋尚子がシドニーオリンピックで優勝した後に「風になった日」という本を書いた。そしてその著作の新聞広告にはこんな言葉が付されていた。「大雨のあとにはきっと虹がかかる。努力は必ず報われる」(読売新聞、平成13.1.28)。

 サクセスストーリーに引っ付いている鼻持ちならない匂いはここにある。「努力は必ず報われる」?、これは嘘だ。絶対嘘に決まっている。我々は知っている。努力はほとんどの場合報われないということを。努力して苦しんで真剣に考えに考えて、それでも一つ目がダメで、二つ目もダメで、三年たっても、十年たってもやっぱりダメで、誰からも認められず、自分ですら認められるような仕事してないなと感じてしまうような人生を、多くの人は実感しそして耐えているのである。

 世の中、成功者だけで成り立っているのではない。むしろ一つの成功の道筋には、大勢の、数え切れないほどの無名の人々の努力と汗が敷き詰められているのである。むしろその道は、「死屍累々」という言葉がふさわしいほどに血まみれているのかも知れないのである。

 最近読んだ本に、「将棋の子」(大崎善生)がある。棋士や名人をめざして、地方では天才と呼ばれた多くの少年が二十四・五歳までにほとんどが挫折して行く、救いようがないまでに残酷な実話である。

 そうなんだ。世の中、努力だけでは決して生きていけないのだ。運命と呼ぼうが、才能と呼ぼうが、成功するのはどんな場合も一握りの、それも神に選ばれたほんの僅かの人間だけなのだ。
 こうしたサクセスストーリーは、その成功が華やかであればあるほどその陰に数多くの競争者がいたことを意味するし、その成功は対立する競争者をことごとく排斥することでのみ達成できたのである。

 成功の物語はいつも心地よい。どんなに苦痛が続き、どんなに困難や試練が待ち受けていても、日吉丸はそれらを乗り越えて生き続け、秀吉となって必ず天下をとることが保証されているからである。
 だが、秀吉は一人しかいないのである。一人だから秀吉なのである。闘って、闘って、数え切れない敗者を作りあげ、その末に勝ちぬいたたった一人の秀吉なのである。

 もちろんそうだからと言って、敗者だって敗者のままで挫折し続けたわけではない。起き上がれなかった者もそれなり居ただろうけれど、多くの者は敗北の経験を糧とし、または敗北そのものをバネとしてしたたかに生き続けた。そのたどった人生は、成功と呼ぶには程遠かったとは思うけれど、それでも敗者は永久に敗者のままだったわけではない。

 そしてもう一つ、世の中は成功者と敗残者だけで出来ているのではない。もっともっと多くの、おそらくその何百倍も何千倍もの当たり前の人、何でもない人、普通の人、報われることや成功そのものすら意識しないでひたすら生きてきた人、家族や恋人や友達を守ること、若しかしたらそんなことすら考えないで下を向いて耕し、額に汗することだけに生きがいを感じていた人、そんな平凡で普通の人達が世の中を構成しているのである。

 いやいや、それだけではまだ不十分だ。嫉妬や裏切りや病気や、およそ成功とか善意などとは無関係な人々だって、貴重なこの世の構成員なのである。

 かくして、ぶつぶつと呟く以外に訴えかける手段を持たないへそ曲がりとしては、世の中を支えているエネルギーは、成功者のものよりも、当たり前の人々の何気なく続けられている努力のほうがずっとずっと多くてしかも貴重なのだと頑なに信じているのである。そして、そんな当たり前のことに対する応援歌がどうして成功者の陰に隠されてしまって歌われることがないのだろうと、一人で勝手に悲憤慷慨しているのである。