高橋尚子がアテネオリンピックの女子マラソン選考から外れた(日本陸連3月15日発表)。彼女がシドニーオリンピックで優勝した直後に発表した著作、「風になった日」の宣伝文の中で、「大雨の後にはきっと虹が出る。努力は必ず報われる」と書いてあり、この言葉に少しばかりカチンときたものだから、このホームページで「この発言には、サクセスストーリーにつきものの鼻持ちならない匂いがする」と書いた(ひとり言、「どこか変だなと感じること」、”サクセストーリー”)。

 だからこの報道に接した時、わが意を得たりと言うか、少し溜飲が下がったような気さえした。そしてこれで、彼女もきっと、「努力は必ず報われる」という気持ちの昂ぶりが、この選考結果で誤りだと気づいたはずであり、そうした思いが傲慢だったと気づいたはずであると思った。

 上昇気流の中に居るとき、人はいつも心地よいものだ。風はいつも自分のために吹き、なんでもかんでもが自分の思うように進んでいく。努力は必ず報われるし、時には何の努力をしなくても、そして自分とは無関係な他人の勝手な努力(?)までもが自分の有利に働き、間違った選択でさえ都合のいい方向に進んでいく。
 「順風満帆」という言葉が、まるで自分だけのためにあるような気さえしてくる。

 だがそれは努力の結果なのではない。努力が報われた結果としての成功体験なのではない。もちろん、そうなるための必死の努力が過去にあり、その努力なくして成功はなかったのかも知れない。
 しかし、「努力は必ず報われる」などと、努力と成功とを直接結びつけてしまうのは誤りなのである。努力はむしろ多くの場合報われないのである。報われなくても努力はしなければならないのである。それが努力するということの意味なのである。

 そしてやがて高揚のひと時が過ぎ、風は止まり、失意の時が訪れる。努力は空転し、計算はどこかで食い違う。あるはずの答えがどこにも見当たらず、他人からの慰めまでもが己の傷をえぐる。そして頭と体が別々に動き出す。気持ちの昂ぶりは逆に自分を裏切り、焦りながらの努力は逆に己の実力を妨害する。

 それで良いんだと思う。そうでなければ、努力しても報われなかった多くの人々の努力が余りにも惨めになってしまうから。
 努力は、努力した過程の中で味わうしかない場合のあることを、彼女は身をもって知ったことだろう。自分の著作を読み返してみても、失意の者にはそこから何の慰めも得られないことを、そして何のエネルギーも与えてはくれないことを身をもって知ったはずである。もしかしたら、その本を読もうとすら思わなかったかも知れない。

 このオリンピック選考の結果は、私にも改めて努力の意味を考えさせてくれた。努力なしに成功はないけれど、努力が必ず成功に必ず結びつくという錯覚もまた、人であることの悲しい性なのかも知れない。

 オリンピックだけが活躍の場ではないし、彼女はこれからも走り続けるだろう。そしてやがて競技の場から遠ざかることになるのだろう。コーチになるのか、それともスポーツとは無縁の道を選ぶのか、それは分からないけれど、人は思い出を引きずりながら、それでもなお生きていかなければならない。それが人生なのである。

 一人事務所の片隅で偏屈税理士は、「風になりそこなったことでそろそろ許してやろうか。応援でもしてやろうか」などと、水割り片手に勝手に思い始めているのである。


                        2004.03.26   佐々木利夫


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報われない努力