地動説、天動説についてのエッセイの中で、地球が丸いのだって実感としては信じがたいなどと書いてしまい、そのままではなんとなく落ち着かないものだから、改めてそのことを考えてみることにした。

 地球が丸いことくらい誰もが知っている公知の事実である。あなただって、地球は丸いのだと、何の疑いもなく信じていることだろう。
 でも、その丸いことを実感しているのかと問われたり、丸いことを確かめたことがあるのかなどと問われたりしたならば、おそらく返事に窮するのではないだろうか。

 つまり、我々が地球が丸いと信じているのは、教科書に書いてあったり、先生に教えられたり、これまでに読んだ新聞や雑誌や書籍が丸いと書き、丸いことを前提に情報が組み立てられていたことが背景になっているからなのではないだろうか。
 それはそれでいいのだと思う。人が学ぶと言うことは、自分で体験できなかったり、確認できなかったりした様々な事象を、知識と言う形で蓄えることを意味するのだからである。

 しかしながら、そのことと、自分の経験できないことや確かめたことのない現象について、他人の意見を無批判に信じこむこととは別物である。
 知識は真実であってこその知識である。可能な限り自分の中で、そうした事象の成り立ちを推認したり、組み立てたりしながら、自分の中に体験に類似した知識として蓄積させていく必要があるのではないかと思う。疑いこそが真実へ近づくための最短距離だからである。

 さて、巷間、地球が丸いこと、つまり地球が平らではないことに関して、学術的な証明というのではなく経験的な実証方法としてあげられているのは、概ね次のようなものである。

 @ 海岸から遠ざかっていく船は下のほうから見えなくなり、最後にマストが消える。

 A 高いところへ登るほど遠くが見える。

 B 南から北へ旅すると、北極星の高度がだんだん高くなる。

 C 月食のとき、月に写った地球の影が丸い。

 D 世界一周できる。


 そのほかにも、地球が丸く見える岬や草原の展望台という施設も、あちこちの観光地で見ることができ、「そう言われて見れば確かに丸く見える」と思うことなどもあげられるかも知れない。

 ところでこれらの方法で、果たして地球の丸いことが体験的に確認できるのだろうか。

 @の現象は、そうした場面に出会うケースは、現実には非常に起きにくいと思われる。船は岸壁から離れていくけれど、水平線の彼方に向かって真っ直ぐに進んでいくという場面など、私はほとんど経験したことがない。船は沖に出ると、ほとんどの場合海岸に沿って横、つまり左右に走るのである。
 これは、@の条件とは前提が異なるから屁理屈であり、はぐらかしだと言うかも知れない。それはそうだ。しかし、あなたが海岸に立って船を見るとき、その船は恐らく横に走っているのではないだろうか。
 それに、仮に真っ直ぐ遠ざかっていく場面にぶつかったとしても、遠ざかる船は徐々に小さくなっていくのである。船は波の間に間に、おぼろにかすんで消えていくのであって、鏡のような海面を滑るようにはっきり見えながら小さくなっていくのではない。だから、少しずつ下のほうから海に消えていき、マストが残りやがて消えるなどという現象は、現実には確認できないのである。

 Aもそうである。高いところへ登るほど遠くが見えるのは事実である。だから人は東京タワーやビルの屋上の展望台へ金を払って見物に行くのである。私だって、暇に任せては登っている三角山は標高たかだか300メートル少々の小山だけれど、それでも頂上からの展望には素晴らしいものがある。
 でもその展望は地球が丸いから開けているのではない。高いところに登って展望が開けるのは、周りに障害物がなくなるからである。六本木のビル群の谷底よりも東京タワーの展望ほうが見晴らしがいいのは、別に地球が丸いことによる効果ではない。
 理論的には鏡のような地球なら、遠くの展望が開けることで地球の丸さを証明できるのかも知れないけれど、それを体験できるような環境は身近どころか、世界中どこにもないと思うのである。
 地球が丸く見えることを売り物にしている展望台も、同じように単なる展望でしかない。しかも、人間の目もレンズでできているのだから、魚眼レンズでも分かるように、視野の縁の方は丸く感じるのである。つまりは「丸く見える」という感覚だけであって、丸いことの証明にはなっていないのである。

 Bの北極星の位置を基本とした証明は正確に感じられるし、比較的体験可能である。北極星は今のところ不動である。宇宙を単位として考えるなら、北極星もまたコマのように歳差運動をしているようだか、少なくとも今の地球に関しては地軸の延長線上に固定されている。
 沖縄で見る北極星の高さと、北海道で見る北極星の高さは、その緯度が違うぶんだけ異なることになる。那覇では地平線から26度くらいなのに、札幌では45度であり、私は未経験だが南半球では見えず、北極点では真上、つまり90度になるのだろう。
 これは決して地球が平坦なら起き得ない現象である。平坦ならどこで観測しようと同じ角度で見えるはずだからである。
 でもこの理論は、北極星が無限遠にあることを前提にするものであって、それ以外では成立しないのである。それは例えば、デパートの屋上のアドバルーンを考えてみるとすぐに分かることである。東京だろうが札幌だろうが、我々が例えば歩いたり車で移動する程度範囲では、地表は曲面ではなく平坦と考えて良い。そうした時、遠くからそのアドバルーンを見て歩き出し、近づき、真下を通り、通り抜ける・・・・・。三角関数を持ち出すまでもなく、最初は20〜30度の高度に見えたアドバルーンは、やがて高度を増し、真下に来たときは90度である。つまりは平坦であっても北極星と同じ現象が見られるのである。
 「北極星は理論的には無限遠にあると仮定できるから・・・・・・」、それはそうなのかも知れない。でも、この「無限遠の事実」はまだ私の実感の中にはない新しい理論だから、仮定の前提をそのまま採用するわけにはいかないのである。

 C 月食は日食よりもドラマ性が少ない。何と言ったって月が欠けるとはいうものの日食と異なって、仮に皆既月食だといいながらも赤い月は残っているのだから。
 それはまあ置くとして、確かに月食はぼんやりとではあるが月が欠けていく。でもそれが地球の影だなんてどうして分かるのだろう。月食にはそれなりの方程式があるだろう。しかしいま確かめようとしているのは、地球が丸いことを体感的に証明できるかどうかというである。それにもかかわらず、私にとって未証明の仮定を新たに設けるなどということは無茶である。つまり、地球の丸さを証明するためにはその前に、毎月の月の満ち欠けと月食とは違うのだと言うことや月食そのものの仕組みを証明しなければならないのだとしたら、いつになったら目的を達せられるのか疑問になってしまう。

 Dの証明は、実はもっとも単純明快に思える。東西南北いずれの方向にせよ、どこまでも直進していくなら、そのうち出発点に戻ると言うのだから・・・・。
 地球儀は地球が丸いと言う前提で作られているからここでは使わない。丸いことを確かめようとしているのに、丸く作ってある地球儀を使うことは本末転倒だからである。世界地図は普通一枚の紙である。どこからでもいいから、例えば東へ向かおう。地図の右端に着いたとき、その場所が次の瞬間左端であるということは、右端と左端が同じ位置、つまり球であるかどうかはともかく、少なくとも円筒形であることであることを示している、と人は言うかもしれない。
 だがしかし、それを体感的に証明できるかと言うととても難しい。船で東京港を出て東に向かおう。南でも北でもいいけれど、北極点、南極点を通過するなど普通の人間には無理な旅程だから東西にしよう。房総半島に遮られて直進できないのでそこで船を下りて陸路を徒歩で直進しよう。東京港の真東にちょうどいいような、しかも真東に一直線に伸びる道路が走っていることは期待できないから歩くしかない。山も沼もあるだろうけれど、この際構わずひたすら歩き続けよう。海岸に出たら船を見つけて東進する。嵐を超え波乗り越えてやがてアメリカ西海岸、また歩こう・・・・・・、なんてことは土台無理、いや不可能である。
 地図でやればいいと思うかも知れない。しかし、四角い地図といえども地球が丸いことを前提に作られているのである。今は体感、経験で地球の丸さを証明しようとしているのである。そんなときに紙の地図など使ってはいけないのである。

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 さてさて、これらはいづれも、愚にもつかないへ理屈である。あなたがもしここまで読み続けてきたのだとしたら、とてつもない物好きであり変わり者である(私並に・・・)。
 ただ私は、やはり自分の身のうちにないものは、どこかで疑ってみる必要があるのではないかと思っているのである。知識と言うのは未経験を補うものであることは事実だろう。我々が読書によって多くの知識を得ていくと言うのは、自分で経験できなかった多くのものを、他人の経験を通じて吸収していくことなのだと思う。

 しかしそれにもかかわらず、権威や肩書き、場合によっては他人の意見というだけでそのまま鵜呑みにし、自分のものとして消化しないまま無批判に取り込んでしまうことは、時に大きな誤りを犯すことになるのではないだろうか。
 どこまで実証できるか、どこまで消化できるかはとても難しいことだけれど、知識と言えども自分の中で納得できない限りは、少し距離を置いておいて眺めていく必要があると思うのである。

 昔どこかで聞いたか読んだことがある。「ずっと、ずっと山奥の、人が一度も行ったことのない場所で、今、大きな木が倒れました」。このことが信じられるかどうかと言う話である。

 さて、あなたは信じますか。



                            2004.010.23    佐々木利夫


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地球は丸い?