永遠に時を刻む



 「太陽電池を内蔵し、標準電波を受信して時刻を自動修正する」ことを売り物にしている腕時計がある。もちろん太陽電池だろうが受信装置だろうが、極端なことを言えば針や文字盤にだって寿命があるわけだから、永遠というのは言葉の綾かも知れないけれど、永遠にそして正確に時を刻み続ける腕時計である。

 1日1回、踏み台に登ってキリキリとぜんまいのネジを巻くのが子供の仕事だった柱時計の時代を経験し、竜頭のネジを毎日巻かないと止まってしまう腕時計を持っていた我が身にとって、こんなふうに、人間とは係わりのないレベルで動き続ける永遠時計というものにはどこか違和感がある。

 もちろん、1日中腕から離さない時計だって、それを確かめるのは恐らく日に数回にしか過ぎず、それに要する時間もまた数十秒程度だとは思う。時計とはいつでも必要な時に正確な時を知らせるという役割を持っているから、そうした状態を保ち続けるところに存在意義があると言ってよい。だからこのことを逆に言うと、人間と係わりのない中でも正確な時を刻むことがその使命だと言ってもいいだろう。

 しかし、それでも時…というよりは、時間、時刻というのは、人間と関わることではじめてその存在理由があるのであり、時計とはそうした時刻と人間との係わりを大切にするための道具として発達してきたのではないだろうか。

 「時計が遅れたり進んだりする」という現象は、会議や人との待ち合わせの約束、列車や飛行機に乗ったりする時、見たいテレビ番組に辿り着くためなど、私達の生活に大きな影響を与える。

 それは、時刻が人と係わることでその存在理由のあることの証左であり、そうした係わりのない場面では、時の流れは時刻とは無関係である。

 ニュートンは時間を一定不変の流れとして捉えたが、その後アインシュタインは測定者が光速に近づくという状況下ではあるものの、時間もまた相対的に変化すると考えた。そのことは時間そのものすら人間のコントロール下に置くことができるものとして、その存在意義が変わってきたことの表われかも知れない。理論物理学は、タイムマシンさえ僅かにしろSFの世界をはみ出そうとしていると解説する。
 しかし、タイムマシンといえども人との係わりの中でしかその存在意義を見出せなかったことは、どんなSF小説を読んでも明らかである。

 人はその流れに目盛をつけ、その目盛を機械に刻ませることで時間に挑戦してきた。だから時計は、たとえ1日に数回しか確かめられる機会がないとしても、その確かめられる動作のある限り時計なのである。人のために時を刻む機械なのである。

 だから、忘れられた時計は時を刻む必要はないのである。机の隅や、本棚の埃の中でいつまでも忘れられたまま正確に動き続ける時計、自身が朽ち果てるまで動き続ける時計というのは、やはりどこか不自然である。

 今日の読売新聞に掲載された英字新聞の講読勧誘広告は、「10万年に1秒の誤差の電波時計プレゼント」と書いていた。10万年である。キリスト誕生以後だけが歴史ではないけれど、2003年間という時間だって十分気が遠くなるほどの重みであり、自分の年齢の時間すら背負い切れないでいるこの身にとって、この広告は異次元への勧誘のようにさえ思えてくる。しかも、それが数百万円もの対価を支払うのならまだしも月々二千数百円の新聞購読の契約に対するプレゼントなのである。

 腕時計を捨てて2年が過ぎた。ひとりの事務所はひとりだけの時間が流れていく。それを怠惰と呼ぼうが気ままと呼ぼうが、自分に合わせた時の流れは、体内時計が自分の時計である。

                2003.12.17   佐々木利夫