世はこぞってワープロ時代だし、現にこうしたホームページへの発表にしたところで、ワープロがなければ手も足も出ない。
 だからワープロを使って文章を作る人というのは、モニター画面に向かって思いついた文章をいきなりキーボードで打ちはじめるというのが一般的なのかも知れない。

 ただ、私の場合は、これまでの長い習慣から来ているのかも知れないが、少なくとも最初の思いつきみたいな文章だけは、どうしても「紙に文字」という形でないと落ち着かない。落ち着かないというよりは、構想を白紙の上に文字という形でぶつけていくのでないと、考えがうまくまとまらないというのが本音かも知れない。

 そうしたとき、その原稿は必ず鉛筆で書き始める。筆記具の氾濫している今の時代、机上の筆立てには、色々な形のボールペンやシャープペン、色鉛筆などが雑多に差し込まれている。しかし、文章を作るときに使うのはどうしても鉛筆でないとだめなのである。

 文書を作るということは、思いつきのままの文章を、削ったり、加えたり、入れ替えたりする作業でもあるけれど、だからと言ってそのたびにわざわざ消しゴムを使うことなど決してない。横線で消したり、吹き出しで加えたり、全く別の位置から矢印で文章を持ってくるなどの方法で仕上げていく。だから、その意味では筆記具が鉛筆である必要は全くない。

 むしろ文字が段々太くなっていくことや、芯が減りすぎて書きにくくなってしまうことなどを考えると、シャープペンのほうがノック一つで芯の出てくる分だけ便利である。ボールペンならノックは不要なのだからもっと便利だとも思う。

 それにもかかわらず、使うのは鉛筆なのである。そしてそれはやがて短くなり、いわゆる「ちびてくる」のであるが、それでもなかなか捨てられないのである。
 たかが数本100円で売られているような鉛筆であるにもかかわらず、捨てられないのである。

 実はこの文章の原稿の書き出しも、僅か5センチほどのちびた鉛筆であった。鉛筆だけでは手に持って書くことのできない長さなので、10センチほどの金属の筒状になった補助具に差込み、ねじ様のもので鉛筆を締め付けて使うのである。

 私はこの金属の筒を3本も4本も持っている。筒に差し込んだ鉛筆をナイフで削り、ちびてきても筒に鉛筆が固定できる限り使い続けるのである。

 私の小学校時代、筆記具は鉛筆しかなかったから、学校へ持っていく筆箱には、鉛筆数本と消しゴム、そして肥後の守とよばれる小さなナイフが入っているだけだった。
 そのナイフで鉛筆を削りながら使うのだが、この「鉛筆を削る」という作業がとても大変なのである。たかが字を書けるように削るだけの話である。現代のように危ないからとナイフを使わせてもらえない環境にはなかったから、刃物の扱いが問題なのではない。

 しかし、しかしなのである。書けるように削るのはそんなに難しいことではなく、誰にでもできることなのではあるが、「きれいに削る」というのはとてつもなく難しいのである。
 心静かに先端に向かって削ってゆく。同じ力、同じ方向、同じ角度・・・・、それなのに直前の削りで表われた芯の位置よりも今度の削りによる芯が先に見えてしまう。どうやら少し深く削りすぎたようである。
 削りはじめから芯の先端までの長さや角度、その縁の滑らかさ、芯は余り長すぎても尖がり過ぎてもだめ、削り始めの位置がでこぼこなんてのはもっての他である。六角形の鉛筆に向かって、一定の角度で真っ直ぐにゆっくりと、気持ちを落ち着けて尖った先端に向かっていかなければならないのである。

 もちろん字を書くのは先端だから、その部分が適当に尖ってさえいれば鉛筆としては使用可能である。少なくとも鉛筆の実用的な面から言えばそれで用は足りるのである。
 にもかかわらず、その削られた形がきれいか、きれいでないかは一目瞭然である。数本の鉛筆が筆箱の中に長短はともかくきれいに削られて並べられていると、それだけで字がうまく書けそうな気がするのである。

 彼女たちはそのために努力したのだろうか。なぜか筆箱に並べられた鉛筆をきれいに削っていたのは、クラスの中でもきれいな女の子だったような気がする。初恋にも似た幼い思い出の中に、こうしたきれいに削られた鉛筆が浮かんでくる。

 それにしても幼い私は鉛筆削りが下手だった。そしてそれから気の遠くなるような数十年を経て、今も相変わらず下手である。手抜きをしていい加減に削っているのではない。その都度きれいに削ろうと努力しているのである。

 ナイフはいつか肥後の守からカッターナイフに代わったけれど、それでも削った形が真っ直ぐになるよう、削り始めの位置が鉛筆の四方からなるべく同じ位置になるよう気遣ってナイフを持つのである。
 にもかかわらず、過去を通じどの一本として、「これは上手くいった」と思えた記憶がない。それでもちゃんと使えるのだから、それほどダメな削り方だとは思はないし、失敗したからといって、上手く削る代償に鉛筆を無駄にしてしまうなんてこともない。だから特別不便でも不自由でもないのだけれど、それにしても下手な削り方だとつくづく思ってしまうのである。
 そして思うのである。私の書く字が見るに耐えないほど下手なのは、きっとこの削り方にあったのではなかろうかと・・・・・・。

 だがしかし、このちびた鉛筆には、駄文にしろたくさんの作品を作り上げてきた実績が込められている。短かくなったという事実は、この芯先から流れ出した文章がその分だけたくさんあったということである。
 自分にとって、このちびた鉛筆は果てしない超能力を持っているのである。無から有を生じる神通力を持っているのである。白紙から何かが出来上がってくるという素晴らしい力を持っていのである。

 鉛筆削り器というのがある。手動にしろ電動にしろ、あっというまにきれいに削れてしまう。でも見ればすぐに分かるとおり、この道具は鉛筆または刃先を回転させながら削るものだから、削り跡が残らないというかまん丸すべすべなのである。ナイフで削ったような削り跡が残らないのである。
 これは削ったというのとはどうしても違うと、私は思ってしまうのである。削り跡のないすべすべの丸い肌は、文字を書くための道具としての魅力がないのである。そこからは文章が流れ出てこないのである。

 かくして私は、ひとつの呪文と共に相変わらずナイフで下手くそに鉛筆を削り続けている。そしてその呪文とは、誰からか聞いたのだろうか、どこかで読んだのだろうか、それとも勝手な自分の創造なのだろうか、こんな言葉である。「字の下手な奴は頭がいい・・・・・・」。

 多分あなたは字がうまいから、そんなことは信じない・・・・・・、そのとおりです。私だってこの呪文の例外を示す証拠を山のように知っているのだから・・・・・・・。


                            2004.09.21    佐々木利夫


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ちびた鉛筆