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 実証できるだけの資料を持ち合わせているわけではないから、こんな風に断言してしまうのはおこがましいかも知れないけれど、仮に自分自身に戦争体験がないとしても、戦争を知らない民族というのは皆無だろうと思っている。

 かく言う昭和15年生まれの私だって、終戦か敗戦かはともかく、第二次世界大戦が昭和20年8月15日に終わった時は5歳だった。ただ、それなり戦争の悲惨さは経験したのだろうが、今となっては戦後の混乱を含めてもせいぜいがひもじさの記憶が中心となる程度であって、残る記憶の中味は悲惨さとは程遠くなっている。

 つまり、戦争体験というのは風化していくのである。忘れていくのである。そして、戦争を知らない世代は、知らないことが当たり前のまま年を重ねていくのである。民族全体の戦争への記憶がどんどん薄まっていくのである。

 だからと言うわけではないだろうが、戦争が終わって59年が経過し、戦争体験を後世代に伝えようという動きがあちこちで見られる。

 私たちは、少なくとも昭和20年の敗戦の日に、軽重色々な思いはあったと思うけれど、日本中がこぞって「戦争はいやだ」と思ったのではないだろうか。

 天皇の玉音放送にいたるまでの軍部の色々な思い、政府の考え方など、敗戦の決意がそんなにたやすいものものでなかったろうことは想像できる。戦争継続の意見が多数あったことも理解できる。中にはあと一歩で日本が勝てると真剣に考えた人々がいたであろうことも分かる。

 でも、父を、夫を、子供を、恋人を、友人を、それぞれの戦いの中に埋め込んだ人々は、いやいや生き延びた戦士本人だって、死んでいった多くの仲間だって、戦火にまみれた人々だって、こぞって「二度と戦争はいやだ、繰り返したくない」と思ったはずである。

 そして今2004年。どうして人はあれだけの戦争を経験しながら、そしてまた世界中のあちこちで戦争が起きて、その悲惨さを目の当たりにしていながら、自らが犯し、自らが受けた戦争を忘れてしまうのだろうか。自分とは無関係なものとして、テレビと言う四角い枠の中に作られた虚像の中に、記憶もろとも押し込めてしまうのだろうか。

 戦争とはそのまま命の問題である。

 「お母さまは、自分は『死』にむかいながら、わたしを『生』にむかってなげたのです」

 これは、「エリカ、奇跡のいのち」(ルース・バンダー・ジー)の一節である。ほんの数ページしかない絵本の一節である。ナチスの手で収容所へ運びこまれる寸前の列車から、生まれて間もないわが子を必死の思いで放り投げる母、その母の思いを生き延びることで全身で受け止めたその子の語る一言である。

 この時代、ユダヤ人は民族として抹殺されようとしていた。

 「わたしと同じ民族の人たちは空の星の数だけいると、昔から言われてきました。それらの星の中の600万個が、1933年から1945年までのあいだに流れ星になって消えました」


 命は数なのではない。600万はすざまじい数ではあるけれど、命はやはりひとつなのである。ひとつでいいのである。ひとつを考えることで命は分かるのである。

 イラクで、パレスチナで、アフガニスタンで・・・・・、そのほか世界中で戦争が起きている。その事実はリアルタイムで報道される。我々はその報道を食事をしながら、あるいはビールを飲みながら、まるで他人事のように、遠い異国の全く関係のない出来事として見聞きしている。しかもそんな時、なんたることだろう、一人や二人の犠牲者数には無反応になっている自分を感ずることがある。命を犠牲者数で比較する、なんという傲慢だろうか。そしてその傲慢さえもが、日常の中にいつの間にか鈍磨し雲散し霧消し、記憶の片隅に埋没されていくのである。

 忘れてしまうことは人間に与えられた素晴らしい能力であり特権なのだと思う。そして生物は、生存に必要なギリギリの情報は遺伝子に組み込んで子孫へと伝えてきた。そうだとすると、人類は戦うことは子孫に伝えたけれど、戦争をやめるという遺伝子を残すことをしなかった。
 戦い、殺すことで生き残ることを、人は本性として備えてしまったのだろうか。

 この絵本「エリカ 奇跡のいのち」は、たったひとつの命の意味を、ひさびさに私に伝えてくれた。
 間もなく8月15日がくる。何度この日を繰り返したことだろうか。世界中で反戦が高らかに叫ばれ、平和の意味が呪文のように唱えられても、しかしこの地球から戦争が消えることはなかった。

 「暴力と報復の連鎖は止むところを知らない・・・」。今年の今日の原爆の日の平和記念式典での広島市長の言葉である。一体全体こうした運動に成果はあったのだろうか。「努力してきたからこそ今がある」と言われれば反論するすべを知らないけれど、それは言ってるほうも同じだろう。だからこうした問いかけ自体が無意味なのだということはよく分かる。

 それでも私には、59回もの平和式典の繰り返しや際限ない国際的な平和運動の数々にもかかわらず、世界中の争いは拡大しているような気がしてならない。
 代案もなしにこんな風に言うのは卑怯だと思ってはいるけれど、もしかしたら、こうした会議とかデモとか集会など、人々にアピールするという手段で平和を広めようとするのは「ないものねだり」なのではないのだろうか。

 世界中の人々が、独裁者も政治家も学者も芸術家も、それらを上回るたくさんの名も無い人々の恐らく全部が平和を願い、戦争を悪だと了解しているにもかかわらず、世界から戦争が消えることはない。
 悪魔が戦争を起こすのだというなら悪魔をせん滅すればいい。だが戦争はいつだってどこでだってだれにだって、常に正義の衣をまとっているのである。
 大儀がどうあろうと、国連でさえ軍隊を持たねばならないと考えられている時代である。われわれはどこかで平和への道筋を間違えてしまったのではないだろうか。


                   2004.08.06   佐々木利夫

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