このタイトルは映画の題名であるが、実のところ私はこの映画を見たことがなかった。そもそもこのタイトルが映画の題名だと気づいたのは、いつもの飲み仲間が定番というほどではないけれど、好きなカラオケのナンバーで「いちご白書をもう一度」を歌っていたからである。

 なんとなく学生運動に疲れた青年の追憶みたいな歌だなとの印象を受けていて、それはそれでその歌の解釈としては正しかったのだけれど、それを「いちご白書」の映画と直接結びつけることまでは考えていなかった。もちろんのことその映画がどんな内容なのかなんてことさえも・・・。

 むしろそうしたこととは無関係に、「いちご」と「白書」という二つの言葉のイメージから、「いちご」は「一五」と考え、悩み多く多感な中学生、そして15歳の高校受験とからめて考えていた。
 その背景には、「白書」という官庁用語として定着している用法と、その当時から言い古されていた「受験戦争」という社会問題に対する大人社会の向き合い方として語られた「15の春は泣かせない」というフレーズとを結びつけていたのだと思う。
 そして無意識に、「いちご白書」とは、文部省あたりが作った堅苦しい高校受験、受験戦争などをテーマにした「○○白書」の俗称であり、同時にそうした受験戦争を題材にした同名の青春映画があったのだと思っていたのである。

 ところでカラオケなんてのは自己満足だけの世界だから、他人がどう歌おうと本人以外は無関心というのがむしろ当たり前のことであり、どんなに本人がしみじみ歌おうがうっとり歌おうが、「聞いていないのに聞いてる振りしている」スタイルを保つのがこの世界の礼儀というものだ。
 ただ、そうは言ってもこの「いちご白書をもう一度」はけっこう耳に心地よい曲だったし、それ以上に問題なのは、いつもの飲み仲間がこの歌を、なじみのスナックの美人ママさんと必ずと言っていいほどデュエットで歌うものだから、こっちとしてもそれほど無関心ではいられなかったという事情もある。

 そうこうしている内に、どうもこの歌が私のイメージする「一五白書」とはなんとなくズレているのではないかと思うようになってきた。
 もちろん恋人同士が映画を見るときに、必ず恋愛映画だったり封切りの大作だったりする必然性はない。アニメだって構わないし、例えば「禁じられた遊び」のように幼い子供の幼い夢を描いた作品だって何の不自然もないだろう。だから二人で見た映画がたとえ高校入試を描いた作品であろうとも、それはそれで二人の好みの問題である。

 ただ、どうもこの歌と高校受験の映画とはどこかしっくりこない。映画の内容も知らないでこんなことを言うのは変ではあるけれど、この曲は中途半端な学生運動をやっていた男の、就職が決まったにもかかわらずまだ大学生であるというどこか宙ぶらりんな空白の期間を歌ったものだ。
 思い切って「禁じられた遊び」の年齢まで下がる映画なら、それなり分からなくもないが、高校受験の中学生の物語を大学生が授業をサボって二人で見に行くというのは、少しばかり違和感が残る。

 さりながら、ことは酔いに任せたカラオケの問題である。いまさら他人の曲にどうのこうの言っても始まらないだろう。
 ・・・・とは思うものの、一度気になるとなかなかそこから抜け出せない性格の私にとって、「いちご」とはどういう意味なのか、そもそも「いちご白書」とはどんな映画なのかなどなど、気になりだしたら止まらないという普段の癖が頭を持ち上げてくる。

 まずは映画をさがすことにしよう。さいわい近くにビデオレンタル店が何件かある。電話したらさすが名画らしい、在庫アリとの返事、早速出かける。
 うすうす洋画らしいと気づいてはいたし、題名が「いちご白書」になっているのは当然のことながら、なんたることか原題が、「THE STRAWBERRY STATEMENT(ストロベリー スティトメント)」ではないか。つまり「いちご」は「一五」ではなく、果物のイチゴだったのである。

 そしてまさしくこの映画は1970年ころのアメリカの学生運動をめぐるものだった。大学当局が黒人街の子供たちから公園をとりあげて予備将校訓練隊のビルを建てようとしたことに端を発し、それがベトナム戦争をからめた学生運動に発展、その運動に参加した一人の男サイモンとその恋人リンダの物語である。
 学長室を占拠し、警察、国家、権力に対抗する学生たち。目的は革命か自由か、それとも生ぬるい自分自身の生き方に対する抵抗か・・・・。だがしかし、どんなにぶつかっても変わることのない世界の中で、結局は空回りしていく自分・・・・、そしてやがて州兵の応援を得た武装警察の圧倒的な力による強制排除を映しながらこの映画は終わる。
 サウンドトラックがやけに素晴らしく、ボート部の練習風景がなぜか「みずすまし」のように静かで、ラストシーンのジョンレノンの「give peace a chance」を歌いながら、警察に検挙され引きづられていく学生の姿がやり切れない・・・・・、そんな思いで見終わった。

 「いちご」の意味は、学部長が学生に向かって話した言葉によっている。学生がストライキに集まったのは学部長の放った「いちご白書」のせいであり、その内容は「学部長に言わせれば、学生の言ってる事は『赤い苺が好きだよ』みたいだとさ」というメッセージである。
 つまりは学生の意見なんぞはイチゴみたいに甘く隙だらけだという皮肉であり、そのことはまた、イチゴは一つ一つは頼りないばかりか、集団になってパック詰めにされてもそれでもまだ脆いという、そんな意味を表しているのかも知れない。
 挫折していく学生運動、その中で中途半端にしか参加できない自分・・・、大学生という立場そのものの不確定さ、そうした脆さの象徴が「いちご」だったのである。

 さてこれでやっと「いちご」の意味が私なりに理解できたのである。なんとなくもやもやしていた長いあいだの胸のつかえがこれでストンと下りたのである。これで安心して仲間の歌う「いちご白書をもう一度」を聞くことができるのである。

 はてさてこれで、そのうちいつものスナックであなたもママとデュエットで「いちご白書をもう一度」を歌うかとのお尋ねですか?。いえいえとんでもございません、もし万が一にも仲間よりも私のほうが上手く歌えたなら・・・・・、なんて考えてしまいますと、とてものことながらそこまでの勇気はございません。・・・・・はい。


                        2004.11.15    佐々木利夫


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