大晦日の夜、そば屋を訪れた貧しい三人の母子が、一杯のかけそばを分けあって食べるというところから始まるこの話は、もう10年以上も前になるけれどあまりの感動に日本中が泣いたものである。

 この巷間を賑わした実話に基づいたとされる人気の平成童話は、その後、作者の創作、つまり作り話だったということが分かり、加えてその作者が詐欺罪で逮捕されたり大酒飲みであちこちで人を騙していたことなどが分かってから急速に人気がなくなった。

 だからわざわざ今になってこの話を持ち出すこともないのだけれど、12月になって大晦日が近づいてくると、どうして日本人は年越しそばを食べるのだろうかとか、どうして理由も分からずに除夜の鐘を聞きながら私もそばを口にしてしまうのだろうかなどと思いつつ、ついでにこの話も思い出してしまう。

 この話が美談として涙ながらに語られたのは、背景にバブルに狂乱していた世の中があったからなのかも知れない。世の中のマスコミのことごとくが、貧しさの中につつましく生きている家族の、世にも稀な美談としてとりあげ、その話を聞き、実際にこの絵本を読んだ多くの人たちが感動したのである。確かこの話は講談のネタとされたり、映画化もされたはずである。

 私はこの話を聞いた始めから、どこか胡散臭いと思っていたから、作り話だと聞いて、さもありなんと思ったけれど、ただこの話が「美談」から落っこちてしまったのは、それが作り話だったからだというところに、どうも納得がいかない思いがするのである。
 美談なら美談で、それが作り話だったとしてもいいではないかと思うのである。何が美談なのかは難しいところであるけれども、美談として人を感動させるというのは、その物語が実話である必然はないと思うのである。ストーリーが人を感動させるのだと思うのである。

 童話や絵本、いや私の好きなSFにだって、人を感動させるストーリーはたくさんある。だからと言ってそれがすべて事実である必要はないであろうことは誰にでも分かる道理である。
 だから私は、どうしてあれほど美談として世の中にもてはやされていた話が、実話でないと分かり作者が詐欺師だと分かったとたんに、手のひらを返したように誰もがそっぽを向くようになったのかが不思議でならないのである。

 ところで、私がこの話を胡散臭いと思ったのは、この母親の行動である。この話の嘘を見破るのはそれほど難しいことではない。母親は夫を交通事故で亡くし、子供二人を抱えての貧しい暮らしを続けている健気な女である。
 しかし母親は今日、少なくともかけそば一杯分の金は持っていたのである。そば屋へ入ったのだから、今の価格にするなら所持金400〜500円くらいは持っていたということになるだろうか。

 この母子がこのそば屋に何か特別な思い入れがあったとは書いていないから、母子がどうしてもこの店のそばを食べなければならないという必然はなさそうである。単純に、「大晦日」と「ひもじさ」が「年越しそば」を連想させただけに過ぎないと思うのである。

 「空腹にまずいものなし」は、証明不要の天下の公理である。400〜500円もあれば親子三人、かけそば一杯を分ける以外に満腹になる手段がほかにもあることぐらい誰にでも分かるだろう。ましてやこの母子は察するところ、「ひもじさ」と戦うのが日常だったであろうから、パンでもいい、インスタントラーメンでもいい、なんなら麦粉を買ってきてすいとん作ったり、種無しパンやうどんを手作りするのでもいい、空腹を満たす方法は他にもいくつかあるだろう。

 大晦日の話なのだから、なんなら「年越しそば」に限定してもいい。街中にあふれているスーパーへ行ってみるがいい。そばなんぞビニール袋に入ってたれ付で一人前100円もしないで売っている。家へ帰って湯を沸かすだけで満腹になれるのである。場合によっては残った金で明日も食いつなげるかも知れないのである。

 私は、母親ならそっちを選んだと思うのである。確かに大晦日である。大晦日には年越しそばを食べなければならないという強迫観念にも似た考えがあったのかも知れない。それにしてもそのそばを「そば屋」で食べなければならないという必然はないだろう。

 もちろん、場合によっては湯も沸かせないほどの窮乏した生活ということも考えられる。でも、もしそうならなおさらのこと、そば屋でそばを食うなんて贅沢である。いやいや贅沢を通り越して見境のない非常識である。それだけの金があったら、その金で二食でも三食でも食いつなごうとするのが、ごくごく当たり前の母親としての選ぶ道、それ以上に生き抜くための知恵もしくは義務だと思うのである。

 だから私は、この話が実話を基にしたものだと聞いとき嘘だと思ったのである。そんな母親などいるはずがないと思ったのである。そしてもしこれが実話なのだとしたならば、きっとこの母親はそば屋の主人が注文のそばを黙って大盛りにしてくれるか、一人分の注文なのに三人分をそっと出してくれるか、あわよくばそば代金をただにしてくれることを期待して店に入った姑息な人間だったのではないかと思ったものだった。

 本当に貧しく金の価値を知っている母親なら、決してそんな見えすいた行動はとらないだろうと思ったのである。貧乏が常に正直者を作るとは思わないけれど、どこかで子連れの貧しさは決してこんな姑息な手段をとることはないだろうとの思いが強かったのである。

 だから、後日この話が作り話だと知ったとき、私は正直ホッとしたのである。

                        2004.12.03    佐々木利夫


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一杯のかけそば