すっぱいぶどう
  
 空腹のキツネが鈴なりになっている山ぶどうを見つける。しかし、ぶどうは高い木の上にあってどうにも手が届かない。「ふん、きっとこの山ぶどうはとってもすっぱくてまずいのさ」、キツネはそう自分に言い聞かせて立ち去る。

 イソップ童話の一つであるこの話は、しばしば人間にも当てはまる寓話として様々な場面で引用されている。手の届かないものや努力しても報われなかった場合などに対して、人はいつもその目的や結果を卑下したり侮辱したりして、その実現しない原因を自分以外の責任に転嫁してしまうのが常であるという話である。
 心理学にも引用されており、自分の都合の悪いことに理由をつけてその行動を正当化する行為を指し、「合理化」とも「合理的行動」とも呼ばれるいわゆる「負け惜しみ」の典型として、あまり良い意味には使われていない。

 しかし本当にそのように理解してしまっていいのだろうか、この話はもっと基本的に、「身の程を知る」ことが大切なのだと我々に教えているのではないだろうかと最近思い始めている。

 井上靖は「あすなろ物語」の中で、主人公である少年鮎太に向かって大学生の恋人と心中しようと決意した冴子に、庭の翌檜(あすなろ)の木のことをこんな風に話させている。
 「あすは檜(ひのき)になろう、あすは檜になろうといっしょうけんめい考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって! それであすなろうというのよ」。

 そうなのである。あすなろはどうしたってひのきにはなれないのである。絶対になれないのである。そうであるならば、ひのきになれない我が身を嘆きつつ失意の一生を過ごすよりも、「ひのきになれない自分こそがまさしく高い木のぶどうに手が届かないキツネと同じである」ことを理解することが大切なのではないだろうか。
 人はやがて自分は自分であることを知る。高望みのまま欲求不満の人生を送ることよりも、どこかで自分の力の程を知り、そんな自分を認め、割り切るための折り合いをつけなければならないことを知る。そして否応なくそのことを自分で自分に納得させなければならない時を確実に迎えるのである。

 もちろん夢を追いかけ、輝く自分を目指すことは、今の時代のみならず生きる者にとっての必須要件でもある。出世すること、金持ちになること、資産家になって気ままに生きること、地位や名声や権力を得て多くの人の上に君臨することが成功であり、正義なのだと、人は繰り返し教わってきた。他人の幸福は己の不幸とばかりに上ばかりを見つめてきた。

 そのことを否定しようとは思わない。「上ばっかり見ていて足元を見ようとしない」という批判は、一面もっともらしく聞こえるけれど、足元ばっかり見ていたのでは人は前に進めなかったのも事実なのである。学び、努力し、挑戦することで人は昨日の自分を超え、社会から承認される地位を築いてきたのだから。

 ただ、そうした我々のひたむきな生き方に、このイソップ童話は、「もうこの辺でいいじゃないか・・・・・・」、そう教えてくれているような気がする。

 古代ギリシャ時代に建築されたデルポイ神殿には、有名な「汝自身を知れ」というアポロンの神託が刻まれていたというではないか。何が己自身なのかを知ることは、実はとっても難しいことだと思うけれど、上昇志向と言う輝きに満ちた言葉には際限がないという致命的な落とし穴が秘められている。

 己を知ることは、己に満足することである。一休みして、過ぎこし方を振り返ることである。見果てぬ幻を、幻だと知ることである。

 だから、届かないぶどうはやっぱりすっぱいのである。目の前にいかにも届きそうに見えていて、甘そうにたわわに実っているぶどうを諦めるためには、すっぱいと思うしかないのである。己の限界を知ることは大切なことである。しかし凡人にはそんなに器用に自分の限界を見極めて、「俺にはできないのだ」と自分に納得させ、他人に宣言するなんてことはとても難しいのである。

 努力の結果が、その努力に値しない価値しかもたらさないのだとしたら、その努力が無駄だと分かった時に諦めたほうがいいのである。それでいいのである。一番分かりやすい答えなのである。間接的で少し屈折しているかも知れないけれど、「すっぱいぶどう」は実は自分の力不足を認めるいさぎよい言葉なのである。

 未練にしがみついて心を残したまま不可能にこだわり続けるよりは、どこかで思いを断ち切ることのほうが、きっと新しいぶどうの発見につながることだろう。
 人は弱い。だからこそその弱さを認めるだけの強さを持てと言葉で言うのはたやすいけれど、凡人にはそのたやすさがとても難しい。

 もう少しキツネの弁護をするならば、この物語のキツネはきっとそのぶどうを採ろうとして必死に努力したと思うのである。失敗して木から落ちて怪我をするほどには努力しなかったのかも知れないけれど、自分なりにぎりぎりまで努力したと思うのである。
 なぜなら、最初からそのぶどうを採ることが一見して不可能な状態にあると分かるような場合だったら、キツネはきっとそのぶどうをすっぱいだなんて言わなかったはずである。採れそうでしかも採るための努力をしたのに採れなかったから、「すっぱい」と決めつけたと思うのである。

 さてさて、こうして何十年も人間続けていると、自分のあちこちにすっぱいぶどうの散らばっているのが見えてきて、だんだんと自分の小ささを知らされる機会が増えてくる。
 だから、己を知るということは、逆に夢をなくしていく過程を示しているのかも知れないなどと、したり顔の老税理士はひとりの事務所の中で密かにこんなことを思っているのです。


                     2004.12.21    佐々木利夫



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