読売新聞だけの企画ではないと思うけれど、毎日のように朝刊に子供の詩が掲載されている。選者が多くの投稿の中から選んでいるのだろうし、そうした選ぶという基準の中には、「どうしたら購読者の感動を呼ぶことができるか」という要素もあることだろう。
また、中には子供の作品を親が添削してから投稿する場合もあるだろうから、そうした意味では純粋な子供の詩と言って手放しで喜んでいいのかどうか、疑問もないではない。
しかしそれにもかかわらず、「あっ、これは子供にしか書けないな」などと、心にズシリと訴えかけてくる作品にぶつかると、そうした子供の心をいつの間にか失くしてしまっている自分に改めて気づかされることがある。
母の日
(なにかいてるの?)
えっ ないしょ
でもね 「い」と「つ」は
かけたんだけどね
「も」と「あ」と「り」と
「が」と「と」と「う」を
おしえてくれる?
5歳女児
いまさらこんなことを言い出すと、これまではそんな風に思っていたのかなどと、逆にお里が知られることにもなりかねないけれど、しみじみ、子供は未完成な大人なのではないという事実を思い知らされる。
教育であるとか躾(しつけ)であるとか、そうした大人社会の常識は、長いあいだ子供を「幼く、未完成な生き物」として、保護すべき対象、指導すべき弱者、教えてやらなければなんにもできない存在として考え続けてきた。
もちろん子供がすべての面で大人と対等になれるなんてことは思っていない。人は学んで生長していくのだし、子供が肉体的にも精神的にも未完の状態にあることははっきりしているだろう。
でも、「未完」とは一体何を意味するのだろうか。単純に完全を獲得するための経過的な状態を考えているのだとしたら、それはとんでもない誤解なのではないだろうか。
空
(空を見上げて)
あ ああっ そら
いいーっぱい
いいーっぱいある
3歳女児
子供は決して未完成な大人なのではない。寺山修二は
「ぼくは不完全な死体として生まれ/何十年かかかって/完全な死体となるのである」(懐かしのわが家)と詠ったけれど、子供は決して未完の大人なのではない。独立した意識をもった「個としての人」である。時に大人だってかなわない巨人でもある。
願い
親に言っても
子どもの願いは
かなわない時がある
おこっても 泣いても
どんなことをしても ダメ
自分が大人になって
自分の力でかなえることにする
小4女児
こんな詩を読むと、こいつはなんてすごい奴なんだろうと思ってしまう。こんな子供を「未完成な大人」と位置づけるのだとしたら、「完成した大人」なんてのはどんなだろうかと、つい思ってしまう。もし本当にそんな完成した大人が実際にいるのだとしたら、そいつは逆に怪物なのではないのだろうかとも・・・・・。
最近読んだアメリカの子供の詩である(谷川俊太郎訳「かみさまへのてがみ」より)。子供はやっぱり地球のどこでも一人ひとり個人としての子供なのである。「今」を生きている独立した人格を持つ子供なのである。
あなたは どうして
じぶんが かみさまだって
わかったんですか?
シャリーン
かみさま
もし しんだあと
いきるんなら、どうして
にんげんは しななきゃ
いけないの?
ロン
「人間は本当は神のように万能で生まれてくる」ということをテーマにした本をかなり以前に読んだ記憶がある。もちろんそうした考えは単なる創作であり、空想論にしか過ぎない。細胞の生長や発達など、多くの実証的な研究が、人は未完で生まれ大人を目指して生長していくことを明らかにしているのだから。
しかしそれにもかかわらず、大人になるということは、こうした子供の頃に持っていた多くの宝石を、無差別に投げ捨てていく過程なのではないかという思いから離れることができない。
そうしなければ人は大人になれないのかも知れない。人が社会を作って共同生活を営んでいくということは、子供の頃に持っていた純粋と呼ぶ溢れるほどの宝物を、こそげ落とし、剥ぎ取っていく過程を指すのかも知れない。
そうだとしたら、大人になるということは、実はある面とっても不幸なことではないのかと思い始めている。
そしてそうした延長線上に、福祉だ、介護だのと、変に過保護にされている最近の老人への接し方に触れるにつけ、逆に「老人は用済みの大人なのではない」などとひとり呟いているのである。
ところで私は数十年にもわたって、好きだったり、気になったり、嬉しかったり、感動したり、驚いたりした、そんな言葉や文章を集めてカードに貼り付けたり書き写したりして保存している。そうしたカードの中には、まだまだこんなにも美しい宝石が詰まっているのです。
電車とおはなし
「せきぐち はなこです」
(どうしたの)
いまね でんしゃがね
「だれっかな だれっかな」って
きいていたんだもの
4歳女児
パパヘ
ニュースをみていたら
びょうきのこどものはなしでした
こころがいたくなってきました
ちいさくっても
しぬんだなとおもいました
小1女児
私は大切なものを確実にどこかへ捨ててきてしまったと、こんな詩を読むにつけ、密かに思いを巡らしているのである。そして決して取り戻すことのできない失くした時間の遠い翼を、時に嘆き、時にひっそりと懐かしんでいるのである。
2004.12.12 佐々木利夫
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