母親を猿に殺された子蟹が、ウス、ハチ、クリの助けを借りて親の仇を討つというこの話は、敵討ちと言ういささかの古めかしさを除けば、それほど抵抗なく私たちに受け入れられる素地を持っている。

 それでも少しこの話を読み込んでみると、どこか変だと思えるところがいくつか見えてくる。
 まず第一は、どうして蟹は拾ったおにぎりを柿の種と交換したのかという疑問である。猿の言い分はこうである。「おにぎりは今の一瞬の楽しみ、柿の種は将来の多くの実りの楽しみ」。

 この説は、見かけ上は至極もっともである。現在の小さな利益か、それとも将来のもっと大きな利益かの問題は、現代にも通じるそして十分に比較考量に値するテーマである。結果、蟹は将来のより大きな利益を選んだということである。

 でもちょっと待ってくれ。「将来の利益」の話は分かった。だが我々が「現在の利益」か「将来の利益」かを比べるとき、その基準となるのは一体なんだろうか。
 少なくとも現在の利益は自分の手の中にある。そうした時、将来の利益の判断はその利益が自分の責任で管理可能であるか、または確実に享受できるものかどうかを基本に置くのではないだろうか。もちろん将来の利益だからそれなりのリスクを伴うことは避けられないであろうけれど、リスクどころかその将来利益を支配管理できないことが明らかな場合には、決してそれを選ぶことなどないと思うのである。

 蟹には木に登って柿の実を収穫することなど、絶対にできないのである。あなたなら、今手にしている大切なものと宇宙の果てにある黄金のリンゴなどとを交換するだろうか。
 もちろん内心、「交換してもいいかな・・・」などと思う人がいないとは限らない。ただそうした場合その交換は、一種のお遊びとして、宝物は夢のままに放棄してもいいと考えた上でのゲームとしての楽しみであるとか、もしくは例えば所有権の登記であるとか真実と認められる交換契約書などを通じて、法律などで契約者の地位が何らかの形で保護されることを期待してから約束するという背景はないだろうか。

 しかし、この物語の蟹と猿の契約にはそうした保証は何一つない。すべて蟹の一方的な自己責任、自律管理の問題である。
 交換に当たって、蟹は将来における柿の木をどんな方法で管理し、どのようにして柿の実の収穫をしようと考えたのだろうか。支配も管理もできないという状況をはたして蟹は交換時に理解していたのだろうか。それとも、そのことはなんとかなるという安易な考えを持っていたのだろうか。

 この疑問についてはもう少し話を続けたいが、ついでだからここで第二の問題点も指摘しておこう。蟹の思慮不足はこれだけではない。あろうことか蟹は猿にその柿の実の収穫を全面的に委ねたのである。
 物語を読む限り、おにぎりと柿の種の交換に、将来の果実の収穫作業は含まれていない。まったく新たに蟹は無報酬で猿に柿の実の収穫を委ねたのである。

 このように考えてくると、第一、第二の問題点とも、蟹のあまりの無防備さには驚くほかない。その無防備さを蟹の善意だなどと言ってはいけない。「善意」という言葉があることは、善意という行動の存在を裏付けてはいるけれど、同時に善意は「悪意」の反語でもあることも知るべきなのである。

 しかも蟹の無防備さは善意などという限度を超えている。無防備は時にそんなことを考えてもいない者に犯罪の実行を誘発する場合すらあるのである。猿だって、例えば第三者による監視があったような場合などには、決して物語のような行動はとらなかったはずである。善意とは善意を保証する社会的な背景があって始めて成立するものなのである。

 後から触れるけれども、ウス・ハチ・クリによる復讐劇は、少なくともおにぎりと柿の種の交換や柿の実の収穫には何の関係もなく、母蟹の死以前の事実関係に影響を与えるものではない。つまり後から復讐が行われるということは、当初の交換や柿の実の収穫に関する、蟹の善意の思い込み、猿の誠実な実行を担保するものにはなっていないということである。

 ここには蟹の「一方的な信頼」のみが存在しているに過ぎない。こんな無防備なお人好しは、生存競争においては敗者として消滅していくのが、むしろ当然なのではないだろうかとさえ思うのである。
 人は互いの所有権を認めたことから自律への道が始まったのではないかと思う。「この土地は俺のもの」であり、「この山はうちの山」なのであり、収穫した作物は我が家の食料としてねずみに盗られないように高倉へ保管することなどは生きていくための必然であり、部落・集落を作って外敵から身を守ることを選んだことにしろ、はたまた台風や大雪から家族や家や土地や作物を守るための工夫をすることだって、そうした守る行為そのものが生存だったはずである。

 そうした経験を積んで、人は善意という無防備だけでは生きていけないことを、歴史の中から学んできたはずである。担保のない一方的な善意の一人歩きは、時に「無謀」と呼ばれても仕方がないと思うのである。

 だから私は、蟹はどうして、信頼でき仲のいいウスやハチやクリに、柿の実の収穫やまたは猿の監視を頼まなかったのか残念でならないのである。収穫を依頼する相手が信頼に足る者なのかどうか、ちょっとした想像力を働かせることで、自分の死、更には将来的な猿の死さえも避けることができたのだから。

 さて善意と無防備の話が長くなった。次の問題点は復讐劇を巡るものである。母蟹の死が、自身の努力で避けられたのではないかという問題は先に述べた。
 第三の疑問は、猿への復讐である。母蟹を殺した憎い猿である。その罪は死をもってあがなうべきであると子蟹は考えた。

 ところで本当にそうだろうか。物語によれば、確かに猿は蟹に向かって青い柿を投げつけ、ぶつけられた蟹は甲羅をつぶされて死んだ。
 しかし、猿に蟹を殺したいという故意、つまり殺意があったかどうかは必ずしも定かではない。地方によってこの話の細部は異なるが、その中に「蟹が死んだのを見て猿は驚いた」というのもあるから、むしろ物語の流れからすれば、猿は青い柿の実を投げつけただけであり、蟹を殺そうとまでは思っていなかったと考えるほうが妥当するのではないだろうか。
 もちろん殺意には、未必の故意(死ぬなら死んでもいいと思うこと)も含まれるから、その認定には難しいものがあるだろうけれど、表面的には蟹が「私にも柿の実をくれ」としつこく言うので、「これでも食え」と青い実を投げつけたというのが事実であり、殺意の認定は非常に難しいと思われる。

 これに対し、復讐の主人公たる子蟹の意思は明確である。はじめから猿を殺すことを目的としており、そのためにウスやハチやクリと言った無敵の応援者を引き連れ、猿を追い込むための周到なシナリオまで作成して万全の体制で臨んでいる。
 そのシナリオに乗っかった猿は、囲炉裏のクリに火傷をさせられ、水がめに潜んだ蜂に刺され、建物から逃げ出したところを、屋根で待ち伏せていたウスに押しつぶされて死んでしまうのである。
 誰が見ても、どこから見ても、故意による計画的殺人である。しかも、猿の弁解など一切聞くことなく、子蟹の言い分だけを聞いたウス達の一方的な判決とその執行であった。

 「死には死を」なのかも知れないけれど、同じ死でも正当防衛から過失致死、故殺まで多岐にわたることが考えられるし、それらを一まとめにして論ずることには疑問がある。

 はてさて、童話をこんなふうに理詰めで解釈すべきなのかどうか、もっと単純に勧善懲悪のパターンに乗っかって、「死」とか「殺人」といった発想から離れて理解すべきものなのかも知れない。
 「いじわるな悪い猿はこうして懲らしめられましたとさ、めでたし、めでたし」でいいのかも知れない。しかし、この物語にはこうした疑問以外にも、例えば「弱者は多勢を頼んで復讐をしても許されるのか」という問題も含んでいるなど、どこか引っかかる問題が数多く残されている。
 童話が語られてきた背景は、子供を寝かせつけるための道具ではなかったと思うのである。面白い話でなければ後世に残ることはなかったと思うけれど、より基本的には道徳というか、人として守るべきルールの伝承だったのではないかと思うのである。

 だからそうした考えと現にある童話の世界との私自身の中におけるギャップは、もう少しきちんと童話を読み解いていかないと解決がつかないのかも知れないなどと、最近は思い始めているのである。日暮れて道遠し・・・・・ではあるけれど。

                        2004.11.29    佐々木利夫


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