バスの「停車」ボタン
  
 歩いて通勤するようになってからバスを利用する機会はめっきり減ったけれど、それでもJRとか地下鉄などと違って路線が豊富だから目的地によっては便利である。

 バスがワンマンカーになったのはかなり昔のことになるけれど、その時から、「次の停留所は○○です。お降りの方は停車ボタンを押してください」のアナウンスが録音で流れるようになった。

 それまでは若い女性車掌が乗降口近くで「お降りの方はいらっしゃいませんか」と車内をぐるりと眺め回してチェックしていたから、手を挙げるのでもいいし「オー」とでも声をかけるだけで降りることの意思表示ができたものだ。それだけではない、降りる支度を始めるだけでも分かってくれたし、車内の混みようによっては必ず降りる人が居るような市街地の中心街の停留所などでは、とりあえず「降りる方はいませんか」と尋ねるものの、客の返事も待たずに停車させてしまうことすらあった。つまりは車掌と言う人間の意志が停車か通過かを決定していたのである。

 ところがワンマンカーになってその意思が機械の信号に代わった。そのことは分かる。運転手が車掌の役目も背負わなければならなくなったのだから、運転中にいちいち後ろを向いて乗客の反応を確かめることなど不可能だからである。

 だから停車を希望する人が押すべき降車意思の確認ボタンの必要性に対する意味は十分に分かっているのだが、このボタンを押すという行為はけっこう心理的にやっかいなものなのである。

 バスに乗ったのだから、終点以外は途中で降りることになる。降りるためには運転手に目的のバス停にバスを停めてドアを開けてもらわなければならない。そうするためには私自身か、もしくは同じ停留所で降りるであろう見知らぬ乗客のいずれか一人がこの停車ボタンを押す必要がある。そうしないとバスは非情にもその停留所を通過してしまうのである。

 もちろん目的のバス停にはバスに乗りたい客が待っている場合もあるから、一概に通過するとは言えないのだが、その場合でも最近は特に乗車口と降車口が別になっているバスが多いから必ずしもこちらの思惑通りに事が運ぶわけではない。

 地下鉄や電車ならば急行だの快速などでない限り、乗降客が居ようと居まいと必ず駅毎に停車してドアを開けてくれるからいいが、バスの場合はノンストップで通過してしまうのだから降りたい者にとって、このボタンを押すか押さないかはまさに死活問題とでも言いたいほどの正念場である。

 停車を希望するかどうかの確認を告げるアナウンスが流れ、私が降りたい停留所が近づいてくる。誰も押さない。更にバス停は近づく。そのボタンを押すと停車を告げるランプが点灯するのだが点いてくれない。手を伸ばすだけでボタンは目の前である。降りる人がいないのだろうか。

 にもかかわらずなぜかすぐにはボタンを押せないのである。バス停が近づきこれ以上放置したらこのバスは通過してしまうというぎりぎりまで待ち、辛抱しきれなくなってやっとボタンを押す。「停まります」のアナウンスがあり、バスは停まりドアが開く。

 なんだこれは。降りる人が私の後からぞろぞろ付いてくるではないか。中には出口のすぐそばに居て私より先に降りる人もいる。どうしてだれも押さないんだ。どうして俺に押させるんだ。降りようとしている客全員が私に意地悪か復讐でもしようとしているのか。
 
 なにはともあれこの降車する人の存在は私に対する裏切りである。間違いなく嫌がらせである。腹の中でボタンを押した私をせせら笑っているに違いない。
 チキン(臆病)・レースというのがある。壁とか崖に向かって車を飛ばし、どこまで猛スピードでその限界に接近できるかを競う度胸試しのゲームだが、このボタン押し心理作戦もこれに似たようなところがある。押してしまった私はこのレースの敗者であり臆病者なのか。

 私は長い間このボタンを押すことにどうしてこんなにも抵抗感があるのか気になっていた。面倒くさいのでは決してない。ボタンを押す労力が惜しいのとも違う。ましてやどの道ここで降りるのだから、降りるという事実を秘密にしたいのでもない。

 それでもこのボタンを押すという行為にはどこか大人の羞恥心につながる何かがある。ボタンを押す行為が恥ずかしいのかと問われれば、決してそんなことはない。どこから考えたってどんな理屈をつけたって停車ボタンを押す行為と羞恥心とは無関係である。

 第一私に代わってにしろ、はたまた私とは無関係なバス停で降りる人にしろ、その人がボタンを押したからと言って私にはその相手に対して何の感慨も湧くことはない。尊敬することもないけれど、だからと言ってボタンを押す行為を軽蔑するなんて事はこの長い人生で溢れるほどにも繰り返されたバスに乗る行為の中で一度だって思ったことすらない。

 だから「恥ずかしい」と言うのは違うのだろう。それでも私はボタンを押すことにためらっている。しかも私が一大決心をして押した行為の結果としてのバスの停車という恩恵を他人がなんのことわりもなく受けることにどこか割り切れないものを感じるのである。それなら他人が押してその恩恵を受けた私は、降車するときにボタンを押してくれた人に感謝するのかと問われれば決してそんなことはない。

 それではこのためらいは降りたいと思っているであろう他人に対しての「嫌がらせ」なのだろうか。もしそうだとするなら、この停車ボタンを押すことに躊躇している全員があたかも共同正犯の意志を持っているかのように「私に対する嫌がらせ」という感覚に汚染されていることになる。
 それも変だ。嫌がらせならその相手が迷惑を受けることで嫌がらせをした側には勝利感というか満足感が発生して然るべきだからである。

 例えばバス停ぎりぎりまでボタンを押さないで、私が押そうと決心する直前に誰かが押したとする。それが勝利とか満足と言えるかと言うと決してそんなことはない。

 でも先にも書いたけれど、私が押して私に続く人が出てきた場合は、どうしても「負けた」という気持ちになるのは事実なのである。負けたと思うのだからその反対は勝ったということになるのかも知れないけれど、感情の上でそれは違うのである。

 それは恥ずかしさとは違うけれど恥ずかしさにつながるものであることは前に述べた。それではなんなのだろうか。そこで気がついたのが一緒にバスに乗り合わせた小さな兄弟の争いであった。まだ小学校にも行っていないだろう兄と弟が、争って自分たちが降りたいバス停のボタンを押そうと競争しているのである。

 彼らはボタンを押せばバスが停まることを知っている。だから降りるバス停以外の場所で押してはいけないことも知っている。つまり早過ぎてはダメなのである。それではいつ押せばいいのか。アナウンスが自分たちが降りるべきバス停の名前を言った瞬間である。理論的には降りたいバス停の前の停留所を発車した時点でもいいのだろうが、それでは「降りたい、停めて欲しい」という意思表示とは差がある。前のバス停で降り損なったのだろうかという誤解を乗客や運転手に与えるかも知れないからである。

 だから彼らは自分たちが降りるバス停の停留所名のアナウンスを待ち構えているのである。兄と弟は別々の場所で停車ボタンに対峙し、一番乗りで押すことに執着するのである。このバスを停める権限が自分にあることを証明しかつその権限にこのバスが従うことを確かめたいのである。

 それで私は思ったのである。ボタンを押すことを躊躇するということは、この幼児性を誰かに見透かされることを恐れているからなのではないかということにである。
 降りたいバス停のボタンを押すなどと言うのは子供のやることで、大人はじっくりと停車するのを待ち構えてゆったりと降りるべきなのだと心のどこかで思っているのではないだろうか。
 だからボタンを押すことが恥ずかしいのではなく、「ボタンを押す行為を他人に見られる」ことに子供じみたものを感じ、強いてはそのことが恥ずかしさにつながっているのではないだろうか。

 そんなことが恥ずかしいことでも何でもないことは十分に承知している。それでも、どこかで「俺は大人だぞ」なんぞという意識がボタンを押す行為の邪魔をしているのではないかというような気がしてならない。

 実はこの事実は大したことないとも思うのだが、こんなことにこだわっているうちに、現実には一つバス停を乗り過ごしてしまった経験がある。もちろんそしらぬ顔で次のバス停のボタンを自分で押してさりげなく降りたのではあるが・・・。
 そしてそのことが逆に、どうしてボタンを押せなかったのかという、それこそどーって事のない詰まらない疑問の始まりにつながっていくのである。

 えっ、あなたにはそんなことはないとおっしゃる。だとすればこんなどうでもいい考えは私特有のものであって、まさに自意識過剰の幼児性なのだと言いたいのですね。
 だとすれば、バスの停車ボタンを押すたびになぜか戸惑いを感じているのは私だけの勝手な思い込みであり・・・・・・・、あぁ、そうだとすれば私のこの数十年にもわたるわだかまりは一体なんだったのでしょうか。

 ここまで書いてから、こうしたボタン押しの戸惑いが私だけに特有な現象なのだとしたら余りにも情けないと感じたものだから、その夜仲間と一緒に入った馴染みのスナックのママさんとの話の中に出してみた。するとなんと、仲間もママさんもボタンを押すことに何の抵抗も感じないというのである。これには実はショックだった。こうした思いは私だけの偏見の可能性が出てきたからである。

 そこで念のため、少し遅れて出勤してきた若いホステスにも同じように聞いてみた。このエッセイを発表するかしないかの瀬戸際である。彼女曰く、「そうよね、あるある、なんかあのボタンってすぐには押せないもんね。この頃少し慣れてきたけど、初めのころは全然押せなかった。今でも一番最初に押すんではなくて誰かが押すのをまって、誰も押さないと分かってから押すよね。」

 これでいいのである。その想いは私とは違うだろうが、あのボタン押しに心理的な圧力を感じ、共通する戸惑いの感情が彼女にもあると分かったのである。
 このエッセイが生き延びることとなった瞬間であった。危うく没になるところをこうして日の目を見ることになったのであった。なんにしても、よかった、よかった・・・・・・・。


                       2005.11.02    佐々木利夫



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