人間は数十万年かけて現在のようになってきたことは科学の証明するところであるし、そうした当たり前みたいなことが逆に錯覚を呼ぶのだろうか。
 人間が進化するのは「歴史的な当然の事実」だと、私は無批判に思い込んでいた。「適者生存」という言葉そのものが進化の過程を証明するものであり、「今を生きている」という事実そのものがそうした生存競争における勝利を示しているのだと何の疑いもなく信じていた。

 だから、最近の世の中の滅茶苦茶を見ていても、それを滅茶苦茶と感じること自体が、そもそもそう感じる私の老いによる感覚の鈍磨、もしくは長生きをしてきたことに伴う短慮や精神的許容範囲の欠乏からくるものだと思っていた。

 だが最近、正高信男氏の著書「ケータイを持ったサル」を読んでから、どうもそれは違うのかも知れないと思うようになってきた。
 著者はこんなふうに言う。
 「人間というのは、放っておいても『人間らしく』発達を遂げるのではなく、生来の資質に加えて、社会文化的になかば涙ぐましい努力を経て『人間らしく』なっていく」。

 つまり、彼はまさしく人は努力しないと退化していくのだと言っているのである。そう思ってから私は少し気持ちが楽になったのである。
 それはそうだろう。極端な話し、狂っているのは相手であって私ではないと正面切って言ってくれているのだから、それまで反対に思っていたことを、あっさりと逆転勝訴に導いてくれたことにホッとしないわけはない。

 そして筆者は更にこんなことも言う。「少子化はパラサイトもしくは少なくとも精神的にパラサイトとして依存した生活を送ってきた者が、自らにパラサイトされる存在となることに嫌悪しているからでないのか」とも。

 私はそのことを「できちゃった婚」に見ることができると思う。民法は・・・・、などと大上段に振りかぶることではないけれど、すくなくとも我々程度の年代の常識という前提で話をするならば、結婚することで子供が生まれることは、至極当然のことであった。結婚から子供であり、子供から結婚ではなかったということである。

 だから民法も親子関係の規定の一番目に、「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」(772条1項)と定め、これを実子の基本としたのである。

 なのに今はどうだろう。性は結婚とは無関係になった。テレビのコマーシャルの中にさへ、子供に、「隣のお姉ちゃん、できちゃった婚なんだって。できちゃった婚ってなに?」と聞かせる始末である。

 だが、私にはこの「できちゃった婚」という言葉が、なぜかとても投げやりで、ジョークにすらならないような気がしてならないのである。
 結婚とは単なる形式であり、法律的に言えば婚姻届の提出があるかないかだけの違いである。世界には同性愛者にも結婚を認めている国もないではないけれど、それでも基本的には結婚は家庭を作り子供を育て、そして社会を構成する小集団として承認していくために人間の知恵が作り上げたルールの一つだと思う。

 結婚がすべてを解決するものでないことは、多くの離婚がそれを証明しているし、離婚にまでいたらなくても破綻した結婚もそれ以上に多いだろうから、結婚で物事のすべてが解決するなどと言えないことは承知しているつもりである。
 しかし、だからといって結婚というルールが誤りだと証明されたわけではない。人が家庭を作り、それを基に社会を構成していく過程には様々な要素が必要とされるだろうけれど、結婚というルールもまた大きく寄与してきたはずである。

 だから私にはこの「できちゃった婚」という言葉が、なんだかとても薄汚れたものに感じられて仕方がないのである。結婚というルールに乗っかった言葉であるにもかかわらず、なぜかその背景に、結婚そのものをないがしろにしているような、結婚をどこか小馬鹿にしているような、そんな気がしてならないのである。

 できちゃった婚そのものは、恐らく昔から存在していただろう。でも現代のように、極端に言ってしまえば「すべての結婚が・・・・」と言えるほどにもこの言葉が当たり前になってしまっているという現象は、やはりどこか変である。変どころではない、間違っていると私には思えるのである。

 はてさて、この文の最初に「努力しない人間は退化する」と書き、それで「私はボケてない」みたいに開き直って喜んでしまったけれど、本当はそれでは困るのである。老い先短い私などは、社会への影響力も寄与率も小さいのだから間違っていてもいいのである。
 そして多くの人々の常識が、「努力しない人間は退化する」という事実を理解するような方向に進んでいかなければ困るのである。これまでにも書いてきたことではあるけれど、昔から言われている「今時の若い者は・・・・」という老人のつぶやきは、やっぱり時代の変化についていけない老人の愚痴であり、そうした繰言の繰り返しを少しは肥やしにしながらも乗り越えつつ作り上げていく若者社会が正しい方向なのだと、そうでなければ困るのである。

 この頃は世の中なんでもありの時代になって、何を贅沢というのかは必ずしも断定できないし、欲望に限界のないことも重々承知しているけれど、今の時代、衣食住のみならず、時間についても趣味についても老若男女だれもが贅を極めているような気がしてならない。
 そして一方で一年間で三万人を超える人が自殺して、「うつ」や「生活習慣病」、環境問題、老後、尊厳死などなど、これだけ贅を極めた社会にあって、あふれるほと゜多くの人がまだ精神的な飢餓の真っ只中にあって、途方に暮れたままに毎日を過ごしている。

 「頼むぞ若者」なんて、そんな無責任な言葉を我々は安易に使ってはいけないのだろうか。


                       2005.06.10    佐々木利夫


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