画像診断医
  
  アメリカでの話である(読売、2.19)。レントゲンやCTなどの画像を見て診断を下す医師が高給で処遇されているという。
 しかもその医師はオーストラリアにいて、アメリカ各地からパソコンに送られてきた画像を見て、翌朝には診断結果を送り返すのだという。

 「お前は病気を診ているだけで患者を診ていない」は、とても素直に分かりやすい医療ドラマの定番せりふだけれど、とうとう現実に病気は患者から離れていってしまった。

 医療情報といえども、今のようなネット社会になると、ことの当否はともかく医者のみならずあらゆる人間に無制限にばらまかれてくる。

 人間のDNAは、全部の解析にはもう少し時間がかかりそうだけれど、配列そのものは既にすべてが読み取られ、遺伝子レベルでの治療の方向へと科学は向かっている。
 また、ES(胚性幹)細胞は人体を形づくるあらゆる細胞へと変貌できる大もとの細胞であるとともに、その状態のままで増殖できる能力を有していて、自己のあらゆる臓器を作り出すことが可能だとされているから、自分の細胞を使った臓器移植(不良臓器の交換)もSFの世界から現実の問題へと向かっている。

 そして一方では、ターミナルケアなどに代表される尊厳死であるとか、場合によっては老後の生きがいそのものを含めた「生きる」ことの意味が問われている現状がある。

 昨年末にスーザン・ソンタグが71歳で死んだ(読売12.30)。自らの乳がんとの闘病体験をもとに書かれた彼女の著作「隠喩としての病い」を読んだのは、もう10年以上も前になるけれど、私の読書メモカードには彼女のこんな言葉が残っている。

 「病気が謎めいて見えるのは、もとを糾せばそこに未知の何かがあるように思えるからだが、病気自体(昔なら結核、今なら癌)がまことに古めかしい恐怖心を掻き立てるということもある」(同書、P8)。

 「私の言いたいのは、病気とは隠喩(メタファ)などではなく、従って病気に対処するには〜最も健康に病気になるには〜隠喩がらみの病気観を一掃することが最も正しい方法であるということだ」(同書p6)。


 私がこの本に惹かれたのは、恐らく「健康に病気になる」という、一見して矛盾しているようでありながら、なぜかとても分かりやすいフレーズのせいだったような気がする。

 そして今、病いは遺伝子レベルにまで到達しようとしている。画像診断方法にしたところで、CT(コンピュータ断層法)なんぞというレベルをとうに超えて、MRI(磁気共鳴診断)だのPET(陽子線診断)だのと、我々の理解、それも抽象的な理解ですら超えるまでになっている。

 ただ、そうした現実が我々に公開されているにもかかわらず、まだ病(抽象的、一般的な病というよりは、少なくとも自分の向かい合うべき病というべきか)は相変わらず隠喩の中に潜んでおり、未知そのままに恐怖の顔を持ち続けている。



                     2005.02.19    佐々木利夫



           トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ