この歳になっても人はけっこう群れたがるものだし、私もその一員として遜色ない立場にいるわけだけれど、酒を飲んでワイワイガヤガヤしている時、酔いが進むにつれて人にはしゃべりたがる奴と黙って聞いている奴の二種類に分かれていくような気がしている。

 お互いとりとめのない話をしているのだし、会話と言うか雑談と言うか、お互いに話し合っているのだから、共に語り、共に聞くのが暗黙のルールだとは思うのだけれど、ふと会話から少し離れてみると、いつの間にか集団は数人のグループに分散し、一人が話し役専門、残り2−3人が聞き役に回っているというスタイルが多い。

 もちろん人それぞれだから、「あんまり話したくない」場合もあれば、「話したくてたまらない」場合だってあるだろうから、そのこと自体を否定するつもりはないし、そうした場合は「静かに聞いている奴」は、それなり相手の話に相槌をうつことで満足しているのだと思う。

 しかし人がだんだん歳をとってくるといういうことは、自分のコントロールが効きづらくなってくることを意味するのかも知れない。どうもおしゃべりに歯止めが効きずらくなってくるようだ。
 そのことは、いったん話し始めると、話し役はなかなか次の人にその役割を渡そうとしないことから分かる。しかもその話したるや、そのグループ共通の話題と言うのではなく、どちらかというと「自分だけの話し」というパターンが多いような気がしている。

 このことは、例えばそれが会話の形式にのっとっている場合でも同様である。
 AさんはAという話題で話し出す。しばらくするとBさんはAとはまるで無関係なBという自分だけのテーマを話し出す。ここでAさんは外形上Bさんの話を聞いているように見受けられるのだけれど、実はなんにも聞いていないということがいずれ分かる。
 どうしてかと言うと、Bさんが一息つくやそのきっかけを待っていたかのようにAさんは再び話し出すのだが、それはBさんの話題を引き継ぐのではなくて、先ほどの自分の話題Aの続きになっているからである。

 人がこんなにも自分だけの話をしたがるのは、日常生活の中で話す機会が少ないために、「話したい」というエネルギーが心の中に溜まっているせいなのかも知れないけれど、会話と言うのはいくつになっても難しいものだとつくづく思ってしまう。

 かくして酒宴は小グループに分かれて、それぞれに賑わっているかのように見えるのだが、実は特定の数人が、相手の意見など聞こえないまま、聞こうとしないままに自分だけの世界に陶酔しているのである。
 しかも見かけ上、あたかも会話が成立しているかのような状況をかもし出したままに・・・・・。

 これは何も酒宴だけでの特徴ではないのかも知れない。思い出してみると、かつての職場では多くの会議が開催され、会議とは議論して決することだと思っていたにもかかわらず、実は違っていたということと同じなのかも知れない。
 会議なのだから、先に発言した人の意見を聞き、理解し、それを踏まえて自分の意見を発表するのが本来なのだろうけれど、そうした議論の場というのは非常に少なかった。

 テーマは共通している。それはテーマを決めて討論するのだから当然のことである。しかし、意見発表者はそれ以前の様々な議論を聞いていないことが多いのである。まさしく発表者の何人かは聞く耳持たないのである。準備しておいた自分の発表予定の原稿をそのまま読むだけなのである。
 先に発表された意見が自分の意見と似ているならば、その部分はあっさりと同調するに止め、それとは違う見解、違う方向、異なった検証方法、もしくは付加すべき効果的な施策などを発表すべきなのである。
 にもかかわらず、自分の順番やいつ意見を求められるかという点だけが気になり、先の発表を聞いた振りをしているだけで実は何も聞いていないから、同じテーマの同じ意見をくどくどと繰り返すのである。

 「白髪は叡智の証拠ではない」と言ったのは誰だったろうか。歳をとるということは、実は人格の形成とはまるで無関係であり、場合によってはとてつもなく狭い世界に閉じこもることを意味しているのかも知れない。

 孫引きになるけれど、松浦静山という平戸のお殿様が書いた278巻にもわたる「甲子夜話」(かっしやわ)という随想集がある。そこに収録されている江戸中期の俳人・横井也有(やゆう)の「咏老狂歌」という作品は、その後段で、歳をとることをこんなふうに表現している。

  くどくなる気みじかになるぐち(愚痴)になる
  思い付事みなふるくなる
  聞きたがる死にともながる淋しがる
  出しゃばりたがる世話やきたがる
  又しても同じ話に孫ほめる
  達者じまんに人をあなどる


 ここまで言うか、との思いもないではないけれど、老残と言うか老醜と言うか、老いの切なさは今昔を問わないままに人を責め続けるのかも知れない。

 横井也有はまた、こんなふうにも言っている。
 「耳も遠くなり、眼はかすみ、四肢のふしぶしは痛むようになってしまいました。老人と話しをして、まどろかしく感じたり、また老人をうとましく思ったのは、つい先日のような気がする」(嘆老辞)。

 彼我の距離はそんなに遠くはない。ただ、「日暮れて道遠し」は、途方に暮れた心境を表しているのかも知れないけれど、考えて見ればまだまだ歩いて行ける先々の道があることを示していることでもあろうと、少しばかり自分を慰めたりもしている。

 「老いは忘るべし、また、老いは忘るべからず」。これもまた也有の言葉である。老いることは日々重なっていくけれど、事実と理解とはまた別なものなのだと思い知らされるこのごろである。

 ところで「お前は話し役か、聞き役か」なんて、そんな恐ろしいことをお尋ねですか。幸い私にはこのホームページと言う問答無用、反対意見聞く耳持たず、言いたい放題、愚痴り放題という天下無敵の閉鎖空間がいつでも用意されていますので、どうかその心配はご無用に。・・・・・・・ん?。

                            2005.01.13    佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ

歳をとるということ