鉢かつぎ姫
  
 むかしからこの物語のタイトルは「鉢かつぎ姫」だと思い込んでいたし、妻や友人に聞いてもやっぱり私の記憶と同じだった。

 そのことはこれから書こうとすることとは無関係なのだけれど、ただどう考えても「かつぎ」というのは「かつぐ」ことであり、かつぐというのは背負うことを意味しているのだと思うのが素直な解釈であろう。だとするなら、この民話の目深に鉢をかぶっている少女の姿とこのタイトルとはどうも結びつかない。

 それで、確か「かづく」という言葉があったはずであると思いつき、古語辞典で調べてみたところちゃんとあるではないか。しかもその意味は「かぶる、水に沈む」である。

 そうだとするなら、これは読み誤りによるものであって、本来「鉢かづき姫」だったのが伝承の過程で濁点が一つづれてしまい、日常語として使い慣れている「かつぐ」に誤用されたのではないかと、鬼の首でもとったように一大発見に浮かれてみたのである。その証拠には、なんと本屋や図書館の童話コーナーには「かつぎ」、「かづき」どちらの名の本も存在しているではないか。

 これは面白いと、早速インターネットの検索サイトで調べてみたところ、「鉢かつぎ姫」1910件、「鉢かづき姫」544件と、両方でヒットしたばかりか、圧倒的に「かつぐ」ほうが多いという結果が出た。これは、私の見解を支持してくれている証拠でもあるのではないか。

 ところが調子に乗って大辞林にまで手を伸ばしたのがまずかった。「被く、かずく、かづく」、「かずく(潜)と同源。『かつぐ』とも」と載っており、「かづく」と「かつぐ」が同義でもあるとしてるのである。
 かくして我が一大発見の興奮も、決着のつかぬままに朝日の前の露のごとくはかない結果を招くことになってしまったのである。

 さてどうでもいいような前置きが長くなった。この昔話のあらすじは次のようなものである。

 昔、河内国に寝屋備中守藤原実高という長者が住んでいました。長谷観音に祈願し、望み通りに女の子が生まれ、美しい娘に成長しました。母親が亡くなるまえに娘の頭におおきな鉢をかぶせたところ、鉢がどうしてもとれなくなってしまいました。
 母親の死後この娘(鉢かつぎ姫)は、継母にいじめられ家を追い出されてしまいました。世をはかなんで入水自殺をしたが鉢のおかげで溺れることもなく、「山蔭三位中将」という公家に助けられ風呂焚きとして働くことになりました。中将の四男の「宰相殿御曹司」に求婚されますが、宰相の母は、宰相の兄たちの嫁との「嫁くらべ」行い結婚を断念させようとします。
 ところが嫁くらべが翌日に迫った夜に鉢かつぎ姫の頭の鉢がはずれ、姫の美しい顔と、金、銀、宝物などが出てきました。嫁くらべのあと、鉢かつぎ姫は妾相と結婚して3人の子どもに恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生活を送りましたとさ。

 この物語の教訓は、周りから馬鹿にされながらも、懸命に耐えて頑張る少女の成功への努力であり、中には「いじめと差別の中で、苦境にも負けず、力強く生きたこの物語は、今の社会における親子の関係と人権問題を語り合える作品と言える」(この物語のアニメ製作社、共和教育映画社の宣伝コピー)と賞賛しているものまである。

 だが、私はこの物語について、「鉢をかぶせた目的」と「物語の結論」の二つがなぜかとても気になって仕方がないのである。

 まず「鉢の目的」についてであるが、なぜ母親が娘に鉢をかぶせたのかという、物語りの一番基本となる動機が不明なのである。「子供が生まれるように祈ったときに、観音様からその交換条件として提示された」という説も見つけたが、一般的には「観音様に娘の幸せを祈った結果の指示」だとするものが多い。

 でもどうして観音様は、仮に子供のない夫婦に子宝を授けるための条件であるにしろ、それを願った両親にではなくこの幼い少女に鉢をかぶせるような試練を与えたのであろうか。
 一つには、後の幸福のための伏線という見方もできるだろう。「可愛い子には旅をさせろ」であるとか、事実かどうか確かめたことがないから確信を持って言うのではないけれど、獅子の子育てで谷底へ突き落とすなどという試練と同様の発想である。

 しかし、彼女は長者の賢く美しい娘として育てられているのである。これが例えば、「貧しく醜い少女」が、一定の試練を経てお金持ちの美人に生まれ変わるというなら、あまりにも平凡過ぎるけれど話として分からなくはない。もう少しひねって、「心がひねくれていたいじわる少女」がやさしい人間に生まれ変わるというのでもいい。でも彼女はすでにそうした要件を最初から満たして生まれてきているのである。

 彼女が鉢をかぶされたのは十四歳である。恐らく当時としては嫁にいけるような年齢である。物語になるような劇的な人生ではないにしても、長者の娘としてそこそこ幸せな将来が送れたはずである。そんな彼女へ死の床にあった母親は有無を言わさず鉢をかぶせるのである。

 やがて少女は継母から嫌われて捨てられる。しかも、しかもである、彼女は父からも疎まれるのである。父が我が娘を疎んだのは、もちろん継母によるそそのかしがあったからではあるが、決心を固めさせたのは「鉢かつぎ」という我が娘の異様な風体である。かくして彼女は母からの指示に従ったことで、実の父親からも捨てられるのである。

 彼女は川へ身を投げて死ぬことを覚悟する。「鉢」は身内をも含む他者からの全面的な疎外であった。それほどの苦痛を「鉢」は少女に与えたのである。この投身自殺は、結果的に鉢をかぶっていたことで川に沈むことがなかったという、なんとも滑稽というかギャグみたいな出来事のために失敗し助けられる。

 だが、この助かったのを、「鉢のおかげだ」などと説明するのは間違いである。例えば台風などの客観的な災害で、多くの人々が災禍に巻き込まれたにもかかわらず、彼女だけが鉢をかぶっていたことで助かったというのならば、それは「鉢のおかげ」であり、場合によっては母の愛とでも、観音様を信仰したことのご利益であるとでも言えるかも知れない。

 しかし、物語では鉢こそが災厄の原点なのである。そもそも鉢さえなければ、彼女は死のうなどとは考えなかったのである。現実に彼女は死を選択したのだから、結果はともあれ死んでしまう可能性のほうが高かったのである。
 観音様があらかじめ、彼女が縊死であるとか服毒などの方法ではなく「入水自殺」を企てるであろうことを予測し、その上で「だからこそ鉢をかぶせたのだ」なんぞという理屈をつけるとしたらそれこそナンセンスであろう。

 確かに彼女は物語の最後で幸せをつかんだ。ただそのことと、「鉢をかついだ」こととの間にどんな因果関係があったのかについて、この物語はなんの説明もしていないのである。
 鉢をかぶったことで、そうしなかった場合とは別の結婚形態になったであろうことは容易に想像できる。でも鉢をかぶることでより大きな幸せを得ることができたのか、はたまた鉢をかぶらなければ不幸な人生を送ることになったのか、その辺のところについて物語りはなんにも語ってはくれないのである。

 さて、もう一つの気になる点は、物語のあまりにも平易な結論である。「鉢かつぎ」という自殺まで考えたようなすざまじい試練の報酬、彼女の悲嘆に報いる報酬は、なんのことはない「美と金」であったのである。

 つまり、この物語の結論は、「世の中結局、女の幸せは美人と金だよね」と教えているだけなのである。それが全てなのだと、わざわざ鉢までかぶせて教えているのである。
 私はそうした「美人とお金」を否定しているのではない。金持ちで美人に生まれることがどんなに幸せな人生を送れるかは、昔から現代に通じる誰にでも分かる真実であろう。
 優しさや勇気や努力などを掲げる人もいるだろうけれど、この金と美の二つが庶民の人生における願い事において一番、二番を占めるであろうことは、アンケートをとるまでもなく、毎日のテレビのニュースやコマーシャルを見ているだけで簡単に予測がつくことである。
 ただ、真実ではあるけれどそんな単純で当たり前の結論が、こうした民話というか童話として伝えられていることにどうしても違和感が残るのである。

 姑となるべき夫の母の反対も、兄嫁などからの冷たい目も、鉢から生まれた金と美貌の前には声もなかった。割れた鉢の中からは、彼女の美貌が現れ、次いで目もくらむほどの金銀財宝、きらびやかな衣服があふれ出てきたのである。

 彼女が美人であることだけで物語が完結しないことは、「嫁くらべ」のくだりで一層良く分かる。彼女との結婚を反対したのは、姑であり兄嫁などの女性群である。「嫁くらべ」などというとてつもなく意地悪な計画そのものが、この人たちの心底を表している。
 だから、「美人であること」が、そうした女性群を説得できる材料になるとは到底思えないのである。彼女が聡明であることはすでに知られているのだから、彼女たちに自分より美しいことを素直に認め、そのことだけで相手を許容するなんぞという心の広さを求めようとすること自体、とても無理な話しである。それほどの心の広さを持っているならば、もっと前に鉢かつぎ姫である状態そのものを承認しているだろうと思うからである。

 だとするなら、残るは金銀財宝である。嫉妬をもかわしてしまえるほどの財宝を持つことこそが、唯一、敵である女軍団の嫉妬を押さえ込み、己が結婚を承諾させるための強力な武器となる。鉢はそうした望みを十分に叶えてくれたのである。

 おお、なんたることか、この物語は、金と美貌による征服の物語だったのである。クレオパトラや楊貴妃など、歴史の多くをひもとくまでもなく、美と金はもっとも有効な征服の力になるという、極めて当たり前のことをこの物語りは語っているだけなのである。
 そして私は思うのである。そんなことは、わざわざ童話にして伝承してもらわなくたって、誰にでも分かり過ぎるほど分かっているよ・・・・・と。

 少なくとも「鉢かつぎ姫」は、最初から美人であり、最初から金持ちだった。それならば、なんのための「鉢」だったのか、どうして「鉢」だったのか、古書店で52円で求めた「鉢かつぎ姫」(国際情報社)を繰り返し繰り返し読みながら、なぜか私はいつまでもいつまでも混乱し続けているのである・・・・・。

 「それほどの美人でもなく、あんまり金持ちでもない貴女・・・、どう思いますか・・・・」、なんてそんなこと聞いちゃいけませんよね。


                       2005.03.27   佐々木利夫


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