一週間ほど前の八月の末にアメリカはこれまでに最強と呼ばれるほどのハリケーン「カトリーナ」に襲われた。フロリダ州もルイジアナ州も前代未聞の大災害で、この地域の人口47万人のうち、移動手段がないなどで自力で避難できなかった者、つまり救助を待っている者は10万人を超えるとも言われ、死者も数千人に及ぶのではないかと言われている。しかも避難した37万人だっていずれは戻ってこざるを得ないのだから、被災者として救援を待つことになるに違いはないだろう。
 その影響にアメリカは大混乱で、折悪しく世界的に石油の値上がりが長期に続いていることとも相まって日本のみならず世界をも巻き込む大騒動になっている。

 ところで、このニュースを見ながら感じたことは、不謹慎であることは重々承知の上で言うのだが、「なるほど、アメリカには肥満者が多いな」と感じたことだった。ヘリコプター、バス、自家用車、ボート、担架などなど、テレビカメラは様々な避難の映像や、またそうした救助・援助の遅れに抗議する住民の映像を伝えているが、そこに表われた人々の多くが自力では走ることもできないようなスタイルの持ち主が多いなと感じた。

 近隣もしくは他州などへと避難したり、避難できないまま残された多くの人が倒壊した家屋や水の中に残されているのだから、そうした人々を助けることはこのハリケーンの規模や被災状態から見て当然のことだと思うけれど、自力での避難が事実上不可能と思われるような体格なものだから、それを介助するのに三人も四人もの人手が必要なのである。そして、恐らく当然のことではあろうけれど肥満は容積と同時に体重の問題でもあるから、あらゆる乗り物などの搬送手段に対しても、その肥満の分だけ他人を排除しているであろう事実が映像を見ただけで分かるのである。

 これまで肥満は各人の健康管理の問題であり、詰まるところ個人個人の問題に帰するのではないかと考えてきたのだが、こうした自力では避難すらできないような状態を突きつけられると、ことは個人の問題に止まらず大げさかも知れないけれど国家戦略に関わる事柄なのではないかと感じてしまった。

 肥満はいたるところで話題になるけれど、どうしてもダイエットと言う商業ベースに乗せられるケースが多いし、それにつられる若い女性の中には肥満ではないにもかかわらずダイエットブームに流される始末であり、時として太り過ぎというどちらかと言うとそうした人々をからかうような映像が多く、健康問題に終始して深刻な問題として捉えられていないケースが目に付くような気がする。

 しかしこうして肥満者の切実な現実を突きつけられると、肥満の問題は単に重量と容積の問題ではなく、個人の健康を超えて例えば大人のみならず子供も含めた国としての医療費などを含む保健行政や心理学や教育などにも影響を与えるし、考え過ぎかも知れないけれど、食料とか水、更には輸入などの貿易にまでかかわってくる問題でもあるのではないかというような気さへしてくる。

 そはさりながら肥満解消は結局のところ個人の問題に帰着する場面も多い。薬であるとか場合によっては体中の脂肪を手術で吸引するなどの手段もあるらしいけれど、人は体と言う器を維持するために余分に得たエネルギーは体内に蓄積するというシステムを作り上げた。しかも人類の歴史は飢餓の歴史でもあった。
 食べられるときに食べ、余力を体内に蓄積することは人が生物としての種を保存するための必然でもあった。人類の歴史が10万年なのか100万年なのか私は知らない。しかし、そのいずれのときにおいてもトータルとしての人類は常に飢えてた。世はあげて飽食の時代と言われているが、この豊かさはほんの僅かの人間に与えられているものに過ぎないことは世界の多くの報道で知ることができるし、その例外的な飽食といえども最近数年とか数十年の出来事でしかない。

 人類の遺伝子は、「食え、溜めよ」と常に囁き続けている。それは人類として生き残るための個々人の意思を超えた種としての命令でもある。

 かく言う私も今から5〜6年前まで身長160数センチ、体重は間もなく90キロに届こうかという肥満であった。身長のほうはいまさらじたばたしても始まらないのでせめて体重くらいと思ってダイエットに励みだした。
 健康管理とダイエットと言うのは自力でやり遂げるのはけっこう難しいものだったが、三食食べることを基本に、自宅での飲酒は止める、肉類を避け魚と野菜に努力する、毎日自宅と事務所約5キロメートルを歩く、そしてこれが効いたのだと思うのだが、体重計に乗っかってパソコンのエクセルに記録することを日課とした。
 折りよくエクセルのグラフ機能への興味もあって日々の実績が目に見えるようになってから徐々に効果があらわれはじめ、三年目にして約22キロの減量に成功した。ただ、最低は64キロ近くまで行ったのだが、最近2年ばかりはリバウンドなのか油断なのか分からないけれど年に1キロ、2キロと増加しはじめてきているのがどうにも気になっているという現実があるのだが。

 ただきっかけはアメリカのハリケーンだけれど、こうして肥満と飽食に思いを寄せてみると、必ずしもそのことが的を射ているかどうか分からないが、ハリケーン地帯の避難民の多くは黒人で貧しい階層の人たちだと言う。肥満なのだから少なくとも日常の食べることに関してはなんとかなっているのだろう。
 金持ちを揶揄する言葉の中に「豚のように太っている」と言う表現がある。だとすれば肥満と貧しさとは相容れないことになるのだが、視点を変えてみると食べることにしか満足を得られないようなぎりぎりの生活環境を示しているのかも知れないし、もしそうだとすれば腹いっぱい食べると言うのは僅かに残された貧しい民のささやかな楽しみなのだと言うことができるのかも知れない。

 家族や隣人との団欒、将来の不安から逃れ明日を思い煩うことからの逃避、そうした要求を食べることにしか凝縮することができないのが現実なのだとしたら、肥満は決して贅沢の表れなのではなく別の意味で貧しさの兆表を示しているのかも知れない。

 ことはアメリカだけの問題ではない。災害という視点に関しては日本も台風や地震を考えるなら目の前に迫っているのが現実だ。「あなたは重すぎるからこのヘリには乗れません」とか、定員30人のバスなのに20人くらいで乗車を拒否されてしまうなんてことが現実に起きないとも限らないではないか。
 しかしながらダイエットを自分で経験してみて、自力ではなかなか成功しにくい減量、成功してもいつか元へ戻ってしまう恐れのある肥満は、どこか麻薬やアルコール依存などの魅力と共通してるような気がしている。

 もちろんもちろん、最近の私の体重微増は決して飽食によるものではないと、少なくとも私だけは信じているのですが・・・・。さて午前の11時を過ぎました。そろそろ事務所での昼飯の準備にかからなければならないのですが、今日は何にしましょうか。



                            2005.09.04    佐々木利夫


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ハリケーンと肥満