最近の読売新聞の地方面である(05.04.06)。「本物とニセモノ」と題するコラムが掲載されており、筆者は収穫野菜の中で市場に受け入れられない2割くらいの変形や虫食いを、「見栄え悪くても本物なんです」とする知人の声を伝え、そのついでに「化学漬け農産物が当たり前となり、見栄えが優先されてきた。腐らない食べ物、化学建材のピカピカの家・・・・。衣食住すべてにおいて偽物が広がった」と述べるとともに、「お袋の味は先代の心や知恵、地域の風土や資源などから生まれる。即席のレンジ料理には文化がない。化学文明に毒されると文化とかけ離れてしまう。」と続けるのである。

 変形や虫食いの野菜をきちんと評価して欲しいという気持ちは良く分かる。だがしかし、と゜うして化学文明が毒で自然食品以外はニセモノだなんて思ってしまうのだろうか。ましてやレンジ料理には文化がないなどとは、一体何を考えているのだろうか。

 この筆者の思考には、「本物はお袋の時代にあり」とする、途方もない思い込みがある。つまり、彼の考える本物の基準とは、僅か数十年前の自分だけの価値観を基本とするものであり、それ以降の手を加えられたものはすべてニセモノだとする抜きがたい不信感に裏打ちされている。

 そのことは、彼の言う「レンジ料理には文化がない」とする発言に要約されている。電子レンジに文化がないとするなら、電気釜もいやいやそれ以前のかまどや薪による煮炊きなども同様に文化がないことにならないのだろうか。

 電子レンジは、加熱方法の一種である。外部からの熱による調理か、それとも超音波を使い食品内部の水分を利用した加熱かの違いである。
 かまどには文化があり、それ以降の調理方法には文化がないなどとどうして思い込んでしまったのだろうか。

 確かに電子レンジには、いわゆる「調理」という手続きが抜けてしまうことが多い。場合によっては「チンするだけで食べられます」という食品も多く市販されている。だからそうした調理方法を「手抜き」と感じ、皮をむき、きざみ、醤油やダシで味を整えるという手続きに、本物としての意味合いを持たせたいと思う気持ちも分からないではない。
 だがそうだとするなら、それもまた一つの思い込みである。洗った大根、皮をむいた里芋、切り身になった魚、スライスされた肉、袋詰めの煮干、そして化学調味料などなど・・・・・・、「手抜き」の原点はいたるところに存在している。自分に都合のいい部分だけを取り出した手抜き論は、やっぱり思い込みであろう。

 今朝(05.04.11読売)の新聞にはこんなコラムが載っていた。
 「九州から上京して私と二人で暮らし始めた母が、近所の魚屋に出かけ、『死んだ魚ば売っちょるよ』と手ぶらで帰ってきたことがある」(死んだ魚など食えるか、北 連一)

 浜に近い住人は、魚屋に並べられている魚だって生きたままで売られていた時代を経験しており、死んだ魚は生きが悪いどころか喰うものではないとすら思っているのである。そしてそのことも、特定の地方の特徴であり特定の環境にいる人にのみ与えられていたいわゆる特権だったのかも知れないけれど、だれも否定できない一つの事実であり文化だったのだと思うのである。

 人は天然の果実や動物を、最初は生(ナマ)で食べていたはずである。それを長い歴史をかけることで調理し保存する方法を発見した。山火事で焼けた動物からヒントを得たのかも知れないけれど焚き火で食品をあぶることを覚え、やがて火を管理できるようになってからは土器や鍋釜を発明し、やがて熱源に炎から電気を利用するようになった。交通手段の発達はランプの宿の山奥でさえ刺身を食べられるようにした。収穫から調理にいたる様々を、人は役割分担することで生活を豊かにすることを思いつく。

 そんな馬鹿げたことは絶対にしないだろうと思うけれど、現代は富士山頂にだって生きたままの海老を運ぶことができるだろう。そうやって食べる刺身はいかにも不自然ではあるけれど、だからといってその海老を「ニセモノ」だとは言わないだろう。

 私は調理や保存や運搬などの変化を含めた過程のすべてが文化だと思うのである。「自然に還れ」は、いかにも気高そうに聞こえるメッセージだけれど、そうした自然のイメージの基礎はどこか「自分の幼い頃の生活空間」に依拠していて、それを他人に強制しているような気がしてならない。ましてや原始に戻ることや変化そのものを否定することがその本意なのではあるまい。

 これからも環境問題を中心にエネルギー環境は大きく変化していくだろう。残念ながら今の私にはその方面の知識は乏しいから具体的には言えないのだが、例えばレンジも超音波から水蒸気に変わりつつあるというし、車や家庭の熱源も石油や原子力から水素燃料へ変えようとする動きも活発である。

 そうした過去からの変化の過程における一点、それも自分の幼い頃の時点を捉えて、そこから以降には文化がないなどと、どうして言えるのだろうか。
 そんなことを言ってしまったら、品種改良も防虫も防疫も、はたまた役割分担そのものも、すべてが「ニセモノへの道」ということになってしまうのではないだろうか。

 彼は自分の意見を「虫食いや変形野菜にも本物の野菜としての価値を認めて欲しい」というところで止めておけば良かったのである。そして「ニセモノ」の視点を「人工的に管理され農薬で育てられた食品」というのではなく、「虫食いや変形野菜をニセモノと感じている社会環境の誤り」に移せばよかったのである。
 虫食い野菜を「本物」と言いたいばかりに、逆に虫食いのない、つまり農薬を使った野菜を「ニセモノ」と観念してしまったところに誤りがあったのだと思う。そうしてその延長に「手を加えられたすべて」にまでニセモノの範囲を広げてしまったのだと思う。

 こうした発想は「自然を大切に」というような論調のいたるところに見ることができる。そのこと自体を分からないのではないけれど、人が生き延びてきた歴史は、それをどんな言葉で表現しようとも一種の「自然破壊」だったはずである。衣食住のすべてを人は、自然を破壊することで成り立たせてきた背景を忘れてはならないのであり、そうした自然破壊の経過をなんでもかんでも「悪」だと意味づけるような考えは、やっぱりどこか誤りなのではないかと思っているのである。

 もちろんだからと言って、「今あること」のすべてを承認すべきだと考えているのではない。変化に対してどこかで折り合いをつけていく必要があるのであり、その接点を探る努力がいま、一人ひとりの我々に求められているのは間違いないとは思っているのである。

 つまりは、木をことごとく切り倒し、草一本生えないようにしてしまった土地に、マンションなどという完全人工物をおっ建てて、その一室でぬくぬくとビール片手に自然を論じる後ろめたさを、どこかで私は感じているということなのかも知れない。

 そう言うわけで私はあなたから、「だから何なんだ・・・」とか、「つまり、何を言いたいんだ」などという言葉がいつ出てくるかと、実は密かに恐れているのです。


                            2005.04.11    佐々木利夫


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