今を生きる
  
 「今を生きる」、番組編成費の詐欺流用などで信頼を失いかけているNHKが復活への意欲を伝えるために作ったテレビコマーシャルでのフレーズである。この言葉そのものに特に違和感はない。どちらかと言えば決まり文句であり、使い古されたその言い方は、言葉が意味するほどの重さを伝えきれていないと言っていいかも知れない。

 ただこの言葉をNHKとは無関係だが同じ頃に民放のコマーシャルでも聞いたことからなんだか気になってきた。
 言葉そのものにどうのこうのと言うのではない。ただ、こうしたフレーズは少なくとも私の経験からするならば、これまではあんまり使われていなかったのではないだろうかと感じたのである。

 これまでのこうしたフレーズと同じような意味の用例としては、「今を生きる」ではなく、むしろ「明日を生きる」という感じではなかったかと思ったのである。

 恐らくこの両者の持つフレーズの意味にそれほどの違いはないだろう。「今を生きる」も「明日を生きる」も共に「これからに向かって頑張ろう」みたいな意味で、「夢を持って努力しよう」と言うようなメッセージを聞く人に伝えたいのではないかと思うのである。

 そしてそんなことから私はこのフレーズの変化を、現代がそこまで忙しくなってきて明日なんぞ考えているような余裕がなくなってきているからではないかと感じたのである。
 明日まで待てない、今どうするかを考えなきゃ・・・・・、そんな切羽詰った状況がそうしたコマーシャルを流したNHKとか民放とかという個々の企業の立場を超えて、現代と言う時代そのものの中に内在しだしてきているのではないだろうかと思ってしまったのである。

 世の中忙しくなっていると言ってしまえばそれまでだが、いつの間にか忙しいことが勝利とか充足などの代名詞に使われるような時代になった。
 「お忙しいですか」と問われて、「お蔭様で」と答えることが成長や成功の途上にあることの証であり、「暇ですよ」と答えることは敗北や失敗や停滞を意味するのだと人はいつから思い込むようになってしまったのだろうか。

 こんな落語を思い出した。売れないそば屋のおかみさんが生活に困って毎日のように質屋へ通う。そんな姿を他人に見られるのが恥ずかしいので出前用のおかもちに質草を入れて通った。それを見ていた近所の人たちがそばの出前が忙しいのだと勘違いして、それを契機に店が繁盛しだしたという話である。

 まさに忙しいことが勝利なのである。暇でのんびりすることは「失業中である」とか「楽をしている」ことであり、場合によってはその状態を「たるんでいる」として非難されたりもするのである。富士登山で登山口から頂上まで人の列がつながって、前の人が邪魔になって先へ進めないなどという冗談まがいの話を聞いたことがある。仕事だけでなく遊びにも一生懸命でしゃかりきになるのが我々なのかも知れない。

 「今やれることを今やれ」を信じることで我々は生活してきた。「今日やれることを明日に延ばすな」を常に真実として人生の様々な場面に対応してきた。時には「明日やれることは明日にしよう」と言う人もいないではなかったけれど、それは怠け者の論理であり仕事をしたくない者の言い訳に過ぎないのだとして排斥してきた。

 電化製品も交通機関も遊びすらも合理的で効率的になることを目指してきたし、その目的は余暇の生み出しでありその余暇の活用(時にそれを善用と呼ぶ)が生活を豊かにするための大切な要素なのだと教えられてきた。
 洗濯機は下着を放り込むだけで製品によっては乾燥までやってくれるようになった。デジカメはその場で撮影された画像を見せてくれるしDP屋に持ち込んで待つことなく直ちにプリントもできる。新幹線は時速300キロで走り、しかもその車内でインターネットが使えるから通勤時間を使ってパソコンで仕事ができると喜んでいるサラリーマンもいる時代になった(11月4日朝のNNKTV)。身近にも快速電車が溢れてきて、便利・快適はスピードの代名詞でもある。そうやって生み出された時間と称される貴重な宝物を、人は一体何に使おうとしているのだろうか。

 そんなにしてまで創り出した時間なのにもかかわらず、それとは裏腹に人はどんどん忙しくなっている。創り出しても産みだしてもそれを上回る密度で効率であるとか隙間狙いなどと称する怪物がそれを追いかけてくる。しかもそうした効率に追いかけられること、つまり忙しくなることが勝利なのであり、手帳の予定欄を埋め尽くすことが生きがいなのだとまさに神話のように信じ込まされた私たちは、そのことになんの疑問も抱くことはない。

 「今を生きる」のフレーズは、それをゆとりと呼ぶかどうかは別にして、明日を信じて努力する程度の少なくとも明日までは残されていた僅かな余裕すらも奪ってしまう現実を示しているような気がして、どこか切羽詰った崖っぷちを伝えているような気がしてならなかったのである。

 はてさて私の今はどうやらそこまで切羽詰ってはいない。「ゆったり、のんびり」は誰もが口にするこれからの時代を生きていくためのキーワードのように信じられているが、真剣にそれを身の内に消化して理解している人は少ないように思える。私ももちろんそうした多くの人の仲間の一人ではあるのだが、それでも多少はこの小さな事務所の中で少し違った時間の流れを楽しんでいるのである。そしてそれが自称へそ曲がりの所以でもあると密かに思っているのである。



                     2005.11.04    佐々木利夫



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