上善如水という名の日本酒がある。かつての職場の上司が、その酒造メーカーのある新潟県魚沼郡湯沢町に勤務したことがあったということで、「この酒は旨い」とわざわざ現地から取り寄せて飲ませてくれたのが味わった最初であった。
 もう10数年前にもなるが、折からこの造り酒屋はこの酒の全国展開を図っていたのか、道内にも少しずつその姿が見かけるようになり、折に触れ自分でも買う機会が増えてきた。

 この酒の名前の意味を、「いい酒は水のように滑らかなものだ」みたいに勝手に解釈し、それなりそうしたイメージに沿った飲み心地だったものだから、いいネーミングだと感心していた。

 ところで最近、この言葉が、老子の「水の教え」と言われるものによるものだと分かった。老子はこんなふうに語っている。

 「道徳経」 第八章 『上善若水』
 上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(にく)む所に居(お)る。故に道に幾(ちか)し。居には地を善(よ)しとし、心には淵(ふか)きを善しとし、与(とも)にするは仁を善しとし、正には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。夫(そ)れ唯(ただ)争わず、故に尤(とがめ)無し。」


 つまり上善とは「理想的な生き方」のことであり、そうした生き方を望むのであれば、水はあらゆるものに恩恵を与えていながら決して争わず、しかも人々が嫌がるところに身を置いているという姿に従うべきだと説いているのである。
 つまりは水は争わないから間違うこともないということである。

 争いが日常化している。どうして世界はこんなにもイライラしているのだろうか。世界中の全部の人が平和を望み、争いをやめようと願っているにもかかわらず、対立はエスカレートしていくばかりだ。

 「宗教が相違と対立の原因(になっている)。・・・多様性とは脅威ではなく、力強さである。」(読売新聞、2004年12月27日、朝刊)。
 英国のエリザベス女王のクリスマススピーチの一節である。世界中が人種や宗教や貧困など、様々な「違い」によって対立が発生し、殺しあっている。自分だけがどんな場合も正しいのだと頑なに信じこみ、決して他者を認めようとしないでいる。
 そして名にし負う一番の問題は、「争いに勝つことで、己の思う平和が実現できる」と信じていることである。

 しかし、平和とは一体なんなのだろうか。戦争はその程度が様々にしろどんなものかの理解はできるのに対し、その対極としての平和とは一体どんなものなのか、私はこの辺が混乱したままでいる。
 単に「戦争でない状態」だけを指すのだろうか。それとももっと輝かしく、豊かで満ち足りて心煩わす何事もない状態にまで達しなければ平和とは呼べないのだろうか。
 そして更には、「自分だけの平和」、「家族だけの平和」、「日本だけの平和」なんていう限定的な平和というものも許されるのだろうか。

 老子は争いのないところには間違いもないと説いた。そのことは良く分かるけれど、それがどんな理不尽にも争わずに無批判に服従してしまうことを意味するのだとするなら、それは違うのではないだろうか。
 結局は「上善如水」と言ったところで、どんな器にも水のように従う生き方は、あらゆる人間の善意と等質性を前提におき、かつ、欲望のコントロールがその個人個人において自在に可能であるという特殊な場面でしか適用されないものなのではないのだろうか。

 私には、行列に割り込む者をやっぱり許せないし、許してはいけないのだと思っている。だから、仮にそうした事実を出会って我慢したのだとしたら、その我慢は水になって低きに流れた結果によるものではなく、相手の理不尽な暴力に屈しただけなのだと自分を責めるだろうと思うのである。
 だがしかし、相手に私の意思を伝えるということは、同時に相手が私の主張に納得しないのであればその相手と「争うこと」をも意味することになる。そしてその解決はやはり力(暴力にしろ、警察などの公権力であるにしろ)によるしかないのだろうと思っている。

 ましてやその理不尽さが、相手の一方的な暴力を伴うものだとするならば、敗北を知りながら無謀な戦いを挑むようなことはしないとは思うけれど、少なくとも私なら、「争わず従う」という老子の心境にはなれないと思うのである。

 争いと平和とを単純に結びつける必然もないとは思うけれど、争いのない状態と言うのは、かくも実現が困難なものだと、凡夫の私は考えているのである。

 人は長い歴史を人に思いを伝えることで生きてきたはずである。なのに、その長い歴史の中から、私たちは一体何を学んできたのだろうか、何を学ばなかったのだろうか。



                        2005.01.04    佐々木利夫


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上善如水(じょうぜんみずのごとし)