神に嫌われた人々
  
 宗教にとって神が必然なのかどうか、実は良く分からなくなってきている。何をもって神であるとか仏であるとか呼ぶのかという問題もさることながら、精神の拠りどころとしての「中心にあるもの」の存在は、矢張り「神格化された何か」であろうと、これまで無意識に思い込んでいたからでもある。

 宗教が、人が生きていくための心のあり方というか、生きていくための自分らしさの根源を形作っているものとして、信仰とは別個の位置にあるのだろうことは、漠然とではあるけれど理解できる。
 そうであるとするならば、宗教は「生きること」であり、信仰が「神」ということなのだろうか。

 どうしてこんなことを考えるようになったのかは、自分でも良く分かっていない。だが、最近ふと感じてしまった、「もしかしたら、神は人間を嫌いになったのではないだろうか」という思い付きみたいな疑問のせいなのかも知れない。

 「祈り」はいつの時代も神へ向けての訴えであった。許して欲しいと人は身もだえし、叶えて欲しいと人は希求した。見果てぬ夢、悔いの多い生き様、嘆きも夢も人知を超えた望みは神に託すしかなかったのだから・・・・。

 だが、神が人の望みを叶えることはなくなつた。山を裂き、海を割り、いかずちを呼んだ神も、いつしか人を忘れていった。
 人が神を創ったにもかかわらずにである。なぜなら私は、神の存在の強さは、その神を信じている人間の魂の重さの総和だと頑なに信じているからである。

 しかも宗教は弱者のためにあると考えている私にとって、神の力は弱者や幼い者や虐げられている人々に向かうべきだと、理屈抜きに考えている。
 それにもかかわらず、平和や平穏は依然として見果てぬ未来にしか、その幻影のような姿を見せることはない。

 「神は死んだ」と言われたのはいつ頃だっただろうか。死んだのならまだ許せることもできる。神が死んだのなら、その神を殺してしまったのは人間なのだから、神への願いは人間自らが放棄してしまったのであり、そうだとするならその神を頼ることなど、はなから諦めることにしよう。

 でも、もし仮に「神が人間を嫌っている」のだとしたら、私たちは途方に暮れる以外に一体どうしたらいいのだろうか。
 神は人間を見限って、自立への旅立ちを決めてしまったとでも言うのだろうか。

 聖書は神は初めに「光あれ」と叫び、そこからすべてが始まったと伝えている(旧約聖書第一章)。しかし私は、「人の存在を前提にしない神」という考え方そのものが、宗教の存立を危うくするのではないだろうかと考えている。

 仮に人以前に神がいたとしても、その神は人に理解され認識される以外にその存在意義はなかったのだし、だからこそ己の存在を知らせるために「神の言葉を伝える人々」を味方に引き入れるしか方法がなかったのだと思う。

 つまり神は言葉によって始めて存在するようになったのである。そして言葉は神のためにあったのではない。神は、人が発明した言葉を利用することによって、その存在を人に知らしめようとしたに過ぎないのである。

 人の作った言葉の力は強大であった。世界中が同じ言葉を使い、同じように話していた時代、天まで届こうとするバベルの塔の建設に恐れをなした神は、人々の言葉混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにすることで、その建設を阻止しようと試みた(旧約聖書第十一章)。
 つまりは言葉は神をしのぐまでの力を持ち始めたと言うことが、この事実だけでもはっきりと分かるだろう。

 だから神は、人が言葉を作ってから人に見えるようになったのであり、そのことはとりもなおさず神を創ったのは人であると言ってもいいと思うのである。
 また、一歩譲って神が仮に人に先行していたことを認めるとしても、少なくとも神の存在を人々に認識させることは「言葉の発明」なくしてはあり得なかったと思うのである。

 人を作ったのはもしかすると神かも知れない。しかし、仮にそうだとするなら、神は人を、遺伝子を変化させることによってしか「生き残ることへの飽くなき執着」を子孫に伝えられないような存在としてしか認めなかった。
 神は人を、何世代もの気の遠くなるような時の経過の中でしか変化しないように作り、決して神を追い越すことなどできないように仕組んだ。その神の思惑を、人は言葉を発明し、遺伝子以外の方法で伝えるという神すら予想できなかった奇跡を見つけ出すことで、あっさりとそのシステムを塗り替えた。
 人は人から人へ何代もの時間を経て伝えてきた生き残るための様々を、言葉を使うことで仲間へそして子へと実にあっさりと伝える能力を身に着けた。

 そんな能力を神は自分のために利用した。そして成長し拡大し膨れ上がっていった。私はそのことを悪いと言うのではない。
 だかしかし、次の二つは最近のニュースである。

 「私に従がわないならば、神を恐れるがいい・・・・・」。今年の1月5日のテレビで放送されたイスラム教を信仰するテロリストの言葉である。なんとテロリスは自らを神の代弁者と任じているのである。

 「神社での買い物に偽札を使うなんて、神を冒涜する行為だ」。これは、偽一万札が初詣の混雑で使われた神社関係者の弁である(1月7日読売)。彼は、神に偽札犯への報復を求めているのだろうか。

 こうした神の使い方を認めたのは神の責任である。もちろん「こうした使い方をするのが悪い」と言えばそれまでかも知れない。だが、そうした使い方を無制限に放置したままにしておいた神の方に、より大きな責任があると私は思う。

 だからそうした使い方を放置したままにしておいたことが、神を人間から離してしまった最大の原因になっているのではないかと私は思い始めているのである。結果として神は人間を嫌いになり、無関心になっていったのではないかと思ったりもしているのである。

 だが待って欲しい。そうだとするならそれは神の傲慢である。そうすることで、人が神の望むように正しい道へと戻ってくると信じているのだとしたら、とんでもなく大きな誤りである。
 神に嫌われたと思う人々は神を頼らなくなるだろう。神は人に無関心だと思う人々は神を信じなくなるだろう。

 「神は自立への旅立ちを決めたのだろうか」と先に書いた。でもそのことが神の意思なら、それは決定的な誤りである。人なくして神は存在し得ないのである。神の自立への道は、そのまま自滅への道なのである。信じる者のいない神なんて、そもそもが存在しないのと同じなのだから。

 神は見えなくなり、宗教もまた「当たり前の人間」に真正面から立ち向かうことから離れて、象牙の塔に迷い込もうとしている。

 地震、津波、豪雨、台風、酷寒などなど、人知を越えた災害が世界中に広がってきている。たくさんの人々が犠牲になっている。にもかかわらず、ここにも神の姿は見えてこず無関心のままである。
 それとも神は、神を必要としなくなったこの世界に嫌気がさして、もう一度新しい己の復活をさぐろうと、かつての「ノアの箱舟」の用意を密かに誰かに命じているのだろうか。



                     2005.01.10    佐々木利夫



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