少し酔った夜、事務所近くの居酒屋から自宅まで夜更けの人通りの途絶えた道を歩く。JRの電車が時折追い越していくから午前様にはまだ少し早い時間だし、たかだか二駅は酔い覚ましにはもってこいの距離である。

 ふと、このインド人の話を思い出し、気まぐれに右手を上げながら歩いてみようかと思いつく。歩いている途中でそんな変な気を起こしたものだから、自宅までこのままの状態を続けたとしてもたかだか20分足らずであろう。そしてこれも酔っているからでもあろうか、上げる前から自宅まで続けるぞと自分に言い聞かす。

 ところがこれがとても大変である。馬鹿みたいな行動だし、いつ止めてもいいのだけれど、そこはそれ多少の酔いが完遂の意志へ奇妙に作用して、自分で自分に意地になっている。

 こんな時間だから、追いこしていく人影もなければすれ違う人もいない。そうは言っても歩いているのはJRに平行している車道沿いの歩道だから、対向する車、追いこす車はそれなり多く、運転手の表情までは見えないけれど、「何やってんだろう、あの馬鹿」と言う声が聞こえそうである。

 これだけの話である。とりあえず自宅に着くまで上げ続け、この行為は完遂したけれど、次の日に繰り返したわけでもなく、再度更に長時間に向けて挑戦してみたわけでもない。そんなに長い時間でなかったせいか、翌日も特に肩が凝るようなこともなかったから、聖者になるための気まぐれ努力は、我が全人生の僅か20分を費やしただけで終わってしまったのである。

 ただ、歩きながら思ったことは、なんでもいいけれど、一つことを続けるというのはとてつもなく大変なことだと気づかされたことであった。
 20分で聖者になれるわけではないから、片手を上げ続けることに対する報酬を期待したのではない。片手を上げ続けるインド人には、片手を上げ続けようと自分に言い聞かせ、やがてそれに伴う聖者と認定されることに伴う報酬があるけれど私にはない。それが大きな違いなのかも知れないけれど、一つのことに思いを込めるということがどういうことなのか、その片鱗を思い知らされた片手上げの20分であった。

 そして歩きながら、片手を上げ続けた聖人は、いったいどんな動機でその行為を始めたのだろうかと思った。後戻りなど決して許されない人生を賭けた動作である。就職するというような、一日8時間とか通勤とか、持ち家とか、結婚や地位や名誉といった、ともすればやり直しのきく動機とはまるで違う決断である。

 「継続は力なり」は、人がよく使う言葉だし、そのことに異論はないけれど、そうした継続には、どこかに「一休み」みたいなゆとりが含まれている。
 一生懸命働いて、一仕事が終わったら風呂へ入ってビールを飲んでぐっする眠る。そしてまた目覚めたら新たな努力を続けていく。そうしたことを繰り返していくことが継続なのだと、少なくとも私は思い込んでいた。つまり、継続という言葉の中には「ビールを飲んでぐっすり眠る」という、そうしたゆとりの時間が本質的に内在しているのだと思い込んでいたということである。

 いまさら気づいても後戻りできないのは分かっているけれど、この20分の片手上げは、私の考えていた一生懸命とは、たかだかこれしきのものだったのかと、そのあまりもの幼稚さを改めて教えてくれた。

 「そこそこ」という接頭語をつければ、そのことだけでなんだかとても努力してきたような気がするけれど、実は「そこそこ努力してきた」とか、「そこそこ頑張ってきた」なんて表現は、しかもその言葉に謙譲、つまり自分の控えめさを付け加えるなんてことは、なんたる不遜であったろうかと、この年齢になってやっと分かりかけてきたのである。

 別に寝ないで頑張れとか、酒を飲むなと言っているのではない。少なくとも、「そこそこ努力している」と思っている自分に対して、「本当にお前は努力しているのか」と問いかけるだけの意思を持ち続けていかないと、「そこそこの努力」はそれこそ「そこそこ」のままに終わってしまうと気づいたのである。

 そして、そうした問いかけのないままの「そこそこの努力」は、単なる自己満足を美化するための錯覚であり、実は努力した振りをしていることの別表現にしか過ぎないのだとこの歳になって気づかされたのである。

 なにしろ、ここに紛れもない「そこそこ」の見本が存在しているのだから・・・・・。



                        2005.07.13    佐々木利夫


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片手を上げて
  

 右か左か忘れてしまったけれど、片手を一生上げっぱなしというインド人の話をテレビで見たことがある。生涯片足で立つことを自分に課した人の映像も見た。もちろん一生とは寝ている間も含めてであることは当然である。

 それらの人は聖者として位置付けられ、そうした他人に真似のできない、言わば一見不可能と思われるような苦行を自分に課すことで他者から尊敬を受けているのである。