孤 独 死
  
  最近の災害などを契機として、孤独死が話題になることが多い。死ぬ時が一人であることを言うのか、それとも死を他人が知るのが遅く、その間放置されている状況を言うのか必ずしもはっきりしないのだが、いずれにしても死者の視点にたつものであろう。

 一般的には「ひとり暮らしで誰にも看とられることなく(気づかれることなく)亡くなる」という状況を指す言葉だと言っていいのかも知れない。

 「死に目に会う」という言葉があり、その反語として「死に目に会えない」があるけれど、この言葉は生きている側からの視点であり、死者の意識を代弁するものではないだろう。
 しかしそれでも人は、誰かに見守られながら死にたいと願っているのだろうか。そうだとするなら、そのこと自体は理解できなくはない。

 死を「旅立ち」ととらえるとき、そうした未知の世界への出発に、見送る人のいないのは寂しいと感ずるのはなんとなく理解できる。

 でも、見送る人のない旅立ちを孤独死と呼ぶのだとしたら、最近の孤独死を巡る話題とはどこか違っているような気がする。

 私が一番理解しやすい「孤独でない死」の形は、自宅のふとんの枕元で医師が脈をとりながら「ご臨終です」と告げ、親族一同がふとんの周りで泣くという、いかにも映画的というか伝統的というか、そんなパターンなのだけれど、例えその場所が家庭から病院に移ろうとも、現実の死がそんなケースに代表されるほど多いとは思えない。

 事故にしろ自殺や殺人などにしろ、突発的な死は世の中いたるところに溢れているし、たとえ病院の中にしたところで手術中の死や、真夜中の睡眠中の死、家族が不在中の死などなど、家族とは無縁の場所で死んでいくケースというのは、思ったより多いのではないだろうか。

 孤独死が最近になって話題となってきた背景には、阪神大震災や新潟県中越地震などで、一人暮らしの老人が一人のままで死んでいくというケースが増えてきたことがあるのだと思う。
 つまり孤独死が話題になってきた背景は、病院での死ではないということであり、現象的には単に一人暮らしの老人の自宅での死ということを言っているに過ぎないのではないかと思うのである。

 そうだとするならば、孤独死とはつまりは忘れられた死・・・・、と言うよりは人としての存在そのものを気にかけられていなかった者の死を言っているのかも知れない。

 愛されなくてもいい、嫌われたっていい、迷惑がられて無視されるのだってかまわない、なんなら介護関係者や病院のスタッフなどの契約による無機質な接触だっていい、それだって少なくとも「私が存在していることの確かな証」なのだから。

 「でも忘れられることには耐えられない」、孤独の中に死んでいく者は、必死の思いでそのことを誰かに伝えたがっているのかも知れない。
 そうして、こうしたことが話題になり始めたというのは、存在しないかのように見える孤独な老人の小さな声が、少しずつにしろ届き始めたことの証左なのだろうか。

 忘れられてしまうことは存在しなかったことと同義であり、そのことは時に死よりも残酷なものなのだから・・・・・・。

 「・・・怖い。生が、死が、無が怖いのではない。自分が存在しなかったかのように、それを浪費したことが怖いのだ。」(ダニエル・キイス、「アルジャーノンに花束を」P292)。


                     2005.02.11    佐々木利夫



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