二次方程式の根を求める方程式がある。中学生の孫と話しているうちにこの話が出て、懐かしい思いにしばしひたることができた。いわゆる ax
2+bx+c=0(a,b,cは0でない実数)を満足するxを見つけ出すものであり、この解の方程式の中に判別式というのが出てきてこれこそが虚数の入り口である。
つまりは判別式b
2-4acが正か負かというものである。なぜなら、この数式全体が√(ルート)の中に入っているものだから、仮にこの判別式全体が負になることを認めるならば、それまで学習してきたあらゆる数は平方する(つまり掛け合わせる)と正になるという理屈が通らなくなってしまうのである。
つまりここで始めて二乗(平方)すると負になる数の承認を求められることになる。なぜならb
2-4acが負になることを認めるということは√の中がマイナスになることであり、この数を平方するとマイナスになってしまうという事実を認めることでもあるからである。そしてマイナスになることを認めた場合、この「平方してマイナス1になる単位」を虚数(記号は i アイ)と呼ぶ。
実はこのことはとても大変な考えなのである。そうした虚数を「存在する」と考えるか、それとも「存在しない」と考えるかでそれに続く数学の存在が問われることになってしまうのだから・・・。
だからといってこの場で二次方程式の根の解法を明らかにしたいのではない。誰が解いても答は一つしかなく、誰がやっても同じ答えになるところに数学の面白さがあり、だからこそ私は数学が好きになったと思っていることを言いたかったのである。
「100人が100人とも同じ答に向かうことができる」、これこそが数学の醍醐味でもあるからである。二次方程式ばかりではないが、答を出して、「・・・よって証明終り」と記述する瞬間の楽しさは、正解にいたる道筋を純粋に楽しんでいる者にしか与えられない至福の特権なのだから。
ところで、「1」と「0」(ゼロ)、それに円周率π(ご存知3.14159・・・と続く無限小数だ)と前に述べた虚数単位のi(アイ)とe(2.718...と、これも無限に続く自然対数の底)を使ったこんな方程式がある。
eiπ + 1 = 0 「eのiπ乗プラス1イコールゼロ」。
この式はオイラーの公式と呼ばれている有名なものだが、実は私はこの方程式を証明することは勿論のこと式の意味についてすらもまるで知らない。だだ私は、この式を作り上げている記号のひとつひとつが、古今のギリシャ時代から多くの学者も素人数学者も狂奔するように捜し求めてきた数学の歴史そのものをいともあっさりと使っていることに驚いたのである。
それぞれの記号に薀蓄を傾けるほどの実力はさらさらないからここで解説するつもりはないが、たとえば1は整数の基本であり素数の入り口でもある。また、0(ゼロ)の発見が人類の文化と呼ばれるほどにも巨大な発見であり、その後の数学の発展にどれほど寄与したかは、「ゼロの発見」(吉田洋一著、岩波新書)で良く分かるし、πにいたっては数字としての値そのものもさることながら、πをさがす過程の物語のほうがずっとずっと興味深いものがある(拙稿、ひとり言・思いつくままに平15・「
14 円周率への旅」参照)。
また、自然対数や虚数の発見などは、まさに非常識の範疇に入るほどの発想によるものであり、そうした世界そのものが数学嫌いを誘発しているのかも知れないけれど、逆に言えばそのことが異世界の楽しみを我々凡人にも与えてくれていることの証でもあると言えるだろう。
もちろん、このほかにも私には理解できない数学を巡る問題がたくさんある。卑近な例を一つ二つ挙げてみよう。
x=0.9999.....とつづく数字がある。いわゆる9がどこまでも続く無限小数である。このxと1とどちらが大きいかという問題がある。理論的には証明方法は色々あるが、これを0.9+0.09+0.009+....と続く無限等比級数の和として考えると、初項0.9、公比0.1だから、公式を使えばその和は1になるし、例えばこの数を3で割ると0.333......となって、これが三分の一を表すことは誰にでも分かるから三分の一の三倍は1であって、そうすると両者は等しいことになる。また大きい数から小さい数を引き算をしてみて余りがあれば大小が分かるから、1から0.999....を引き算してみると、0.0000.....と0がどこまでも続く。どこまでも0が続くのならその差は0と言うことだから二つの数字は等しいと考えることができる。でもちょっと待ってくれ。それにもかかわらず私の直感は1のほうが大きいのではないかと昔から囁き続けているのである。
さてもう一つ。x=1-1+1-1+1-1.........と続く数列を考えてみよう。xはいくつか。1-1という組み合わせが無限に合計されると考えればx=0である。しかしこの式を最初の1の次から(-1+1)が続くと言うように考えれば1に0を何回加えても答は1だから、x=1と言うことになる。更に最初の1の次からの全体をマイナスで囲んでみるとこの式は、x=1-(1-1+1-1+1-1...)となり、良く見るとこのかっこの中は前提となったxと同じだから、この式はx=1-xと書くことができる。そうすればこの方程式からxを移項すればx=1/2と言う結論が導き出せる。つまり、考え方によってxは0、1、0.5と言う三種類の答が出てくるのである。
屁理屈めいた数学の話が長くなったがそのことが私の本位ではない。ただ、このe^(iπ)+1=0に関して、「我々はこの公式が理解できないし、その意味もわからない。しかし、いまこれを証明したのだから、これは真であるはずだ」と大学での講義で話しかけたアメリカのバース教授の言葉を載せた本(ゼロから無限へ、数論の世界を訪ねて、コンスタンス・レイド著、芹沢正三訳、講談社、P229)を読んで、さもありなんと奇妙な同感を味わった記憶がある。
つまりは、証明できることと実感できること、もっと卑近に言うなら、世の中には仮に証明できても場合よっては理解に到達できないものがあるのではないだろうかという、そんな考えの萌芽を感じた最初だったのかも知れない。
そうした萌芽がささやかながらも枯れないで生き残ってきたせいなのか、最近少しそうした証明されたことよりも感じることへの思いが強くなってきたような気がしている。答が一つしかないなんて本当はどこか不自然ではないだろうかという思いである。
もちろんそのことで例えば答えが一つしかない数学の証明問題を卑下しようとか否定しようとかを考えているわけではない。二次方程式の根の解法を紙と鉛筆で自力で作り上げることの快感は、この歳になってもちっとも衰えることはないのだから。
ただ、こうして気まぐれにしろほんの数語とは言えいくつかの数学記号に思いを馳せてみると、人生は方程式のように画一的なものでなくて良かったなとしみじみ思うことがある。
人は結局人体と言う「形」の中でしか生きることを選べなかった。そしてその「形」は、いつか必ず脆くなり壊れていくのである。それを「老化」と言おうが「終わり」と呼ぼうが無関係である。そのことを厭だといったところで生まれた瞬間にそうした終わりのためのスイッチは自動的にONにされてしまったのだから・・・。
多様性が世界中を混乱に陥れているような気がする現代ではあるが、多様性があったからこそ人は生き延びてこられたのではないかという思いもまた実感である。もちろんそうした多様性の発想には、適応できない多様性はいずれ淘汰されると言うこれまた厳格で救いがたい事実も直視しなければならないことも当然に含まれてはいるのだが・・・・・。
2005.09.04 佐々木利夫
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