6月10日に倉橋由美子が心筋梗塞で死んだ。69歳である。彼女と特別に知人だったわけではない。こっちが勝手に知っているだけで、あっちはまるっきり知らない、そんな関係である。
ただ、多くの若者がそうであったように、私も文学青年(そうありたいとの願望だけであったにもせよ)の系列になんとか並びたいものだと願い、そうした願望の一番光る目標に「芥川賞」が輝いていた頃の、遠い遠い昔の思い出の中での関係である。
彼女が、惜しくも芥川賞は逃したものの、小説「パルタイ」でデビューしたのは1960年、24歳のときであった。私は20歳、少なくとも年齢的に彼女は私のすぐ先にいた。
「パルタイ」はきっと読んだはずなのだが、内容については今ではなんにも覚えていない。それでもこの「パルタイ」という語は、当時の私や私の文学仲間にとっては奇跡を呼ぶ呪文のような響きを持つ言葉だった。
つまりは「パルタイ何するものぞ」が同人誌仲間の青い議論の中心であり、稚拙な嫉妬であると承知しながらも、時に彼女を軽んじ、時に軽蔑し、時に未完成と批判した。批判することで彼女を超え、より深遠な理想にまい進している自分を感じることができたと、錯覚にしろ思い込んでいた。
今でこそ芥川賞といえども18歳で受賞する時代になったけれど、40年以上も前の芥川賞はもっともつと重かった。
そもそも文学というものが、例えば夏目漱石であるとか川端康成であるとか、そういった神棚みたいなものの上に鎮座しているものだったから、その登竜門たる芥川賞などというものも、遥か遠い雲の上にあった。
それが芥川賞には届かなかったものの、24歳のそれも女性が文壇にデビューしたのである。ある程度実績があって、努力も続け、そこそこ他人に少しずつ評価された上での作品に芥川賞なり直木賞が与えられ、酸いも甘いも噛み分けた年齢になってから始めて文壇にはデビューできるのだと無意識に思い込んでいた、有象無象の文学青年の中の一人としては、この24歳の女性のデビューは晴天の霹靂とでもいうべきできことだった。痛快を超えてまっすぐに嫉妬に向かったのも、これまた若さゆえの浅薄さによるものであったのかも知れない。
そうした形だけの文学青年へ自分を仕立て上げようとした幻想は、やがて公務員、税務署勤務、転勤、結婚、子供、仕事・・・、そういったありふれた日常の前にあっという間に雲散霧消してしまうのであるが、それでも倉橋由美子という名は、「パルタイ」というキーワードと共に私の人生のどこか隅っこに「芥川賞」という潜在意識を残したまま、執拗に尻尾を引きずってきていたような気がする。
もちろん、「芥川賞」狙って挫折したというのではない。・・・・・・、こういう言い方をすると少し違うような気がしないでもないのだが、気持ちの上では狙ったと言えば狙ったのではあるものの、それはあくまでも「芥川賞が欲しい」と思っただけであり、授賞式に望む晴れがましい自分を空想するだけのものであって、そのための努力など何にもしなかったのだから、やっぱり「狙った」のではないと言うべきなのかも知れない。
一億円の宝くじを夢見つつ、しかもその宝くじを買わなかったのと同じことなのだから・・・。
それでも倉橋由美子の文壇デビューはショックだった。「俺にも、もしかしたら文学への道が開けるかも知れない」、つまり、「俺にも芥川賞がとれるかも知れない」と錯覚させるに十分な出来事だった。才能であるとか努力であるとか、はたまたデビューのための準備や手続きみたいな方法など、なんにも考えない、ただただ倉橋由美子が24歳だったという事実だけに幻惑された文学青年もどきの余りにも幼い白昼夢だった。
その若者はやがて文学とは丸で縁のない、「税法」という法律を執行する分野へと進んでいく。幼い頃からの読書の習慣は残ったし、太宰治にも傾倒しつつ、SF小説にもぞっこん惚れこんだ。時々は職場の広報誌に雑文を載せるなど文章を書くのがそれほど嫌いではないなど、まあこじつければいささかの文学の残滓みたいなものを引きずりつつ、芥川賞などとは無縁の生活をするようになっていった。
そしてある日、彼女の小説「大人のための残酷童話」に巡り会い、もちろん同時に「パルタイ」という言葉も思い出しつつ、あまりにも違いすぎる彼我の自分の現実に愕然としたものだった。
その倉橋由美子が死んだ。何の努力もしないままに、文学から離れていった若者ではあったが、彼女の死になんだか自分における一つの時代の区切りを感じたのである。あれほどの嫉妬心を燃やした相手でありながら、それでも彼女を目標に努力することなど少しもなかった若者ではあるけれど、突然の訃報はやはりどこかでつっかい棒を外されたような、何か手ごたえのない空白ができてしまったような、そんな気がしているのである。
多分それは、彼女が生きつづけていれば自覚することなどなかった思いだろう。片思いにしろ、かつて惚れていた女の突然の訃報みたいに、青春とか、気まぐれとか、夢とか、なんと呼んでもいい、そうした見果てぬ思いというのは、人はやはり心のどこかに大切に残しているものなのかも知れない。ほとんど忘れていたのだろうけれど、確かに倉橋由美子は私の中に僅かにしろ残っていたことをこの訃報は知らせてくれた。
文学を目指した仲間とどんな話をしたのか、今ではもうすっかり忘れてしまっている。倉橋由美子について語り、「パルタイ」について夜遅くまで批判し、文学の本質などをテーマに熱く語った、そんな昔が確かに自分にはあったのだというかすかな記憶だけが、彼女の突然の訃報から脈絡もなく浮かび上がってくる。
そうしたかつての仲間とも、いつしか交流は途絶え、今では名前すら定かでない者も多くなった。それでも名をなした仲間が一人でもいたなら、例えば当時のクラス会とかサークル会などを通じて少なくともその名前くらいは伝わってくるのだろうが、残念ながらそうしたニュースはない。
それぞれ皆が、普通の人として普通に暮らしているのだろう。それでいいのだと、倉橋由美子を追いかけられなかった男は、ひとり我が身を省みてそんな風に思っているのである。
そして、やっぱり倉橋由美子は、まるで見えない点滴みたいに、私の日常に影響を与え続けていたのかも知れないなどと、ふと感じたりもしているのである。
2005.06.19 佐々木利夫
トップページ ひとり言 気まぐれ写真館 詩のページ