蚊遣り、草引き、虫送り
  
 世論調査であるとか選挙報道などなど、色々なアンケート結果をテレビや新聞などで知る機会が多い。そうした時、まず気になるのはこのデータの中に自分の意見が入っていないこと、つまりこの統計のための調査対象に私自身が入っていないことである。

 どのみち統計なのだから一定の母集団とランダムな対象選定さえあれば結果を信頼してもいいことは過去に統計学に関して割と熱心に学んだことがあるので分かっているつもりである。それでも自分の意見が直接反映されていない統計と言うのは、数学的信頼以前の問題としてなんとなく胡散臭さを感じるものである。

 その次に気になるのが回答の中に「どちらとも言えない」という選択肢のあることである。AかBかを聞かれたときにどちらかに決めないという回答者の心情をどう理解したらいいのだろうかと考えてしまうことと、そもそもどうして「どちらとも言えない」と言う選択肢を質問の中に加えたのだろうかという質問者の意図に対する疑問である。

 「イラク派遣は継続すべきか」、「小泉内閣を支持するか」、その他なんでもいいけれど、YESかNOかを問われているのだから、その問にまるで無関心なら意思表示は不要になるわけだし、そうでなければどちらかに○をつけるのが常識だろう。それを「どちらとも言えない」などとするのは優柔不断であり、無責任であり、それ以上に卑怯ですらあると思っていた。

 しかもである。そうした質問に対する回答そのものの中、つまり求める意見の中にどっちつかずの「どちらとも言えない」と言う回答が紛れ込んでいること自体に、回答者がその回答を選ぶかどうかということ以前に質問する側の意図に割り切れなさを感じてしまうのである。誤解を恐れずに言うなら、質問者の隠された誘導みたいな不純さを感じてしまっていたのである。

 だが、最近の少年や少女の犯罪であるとか止むことの知らないテロなど、世の中がとてつもなく理解しがたくなってきているせいか、それともそもそも理解しがたいのは自身の老化に伴うへそ曲がりがいよいよ佳境に入ってきたことによるものなのか、翻って例えば私自身がそうした質問をされたとき、どんな質問に対しても「どちらとも言えない」という回答を選ぶ可能性はないのかと自問してみると、そこまで断言できる自信のないことに最近気づきはじめてきた。

 考えてみると、この「どちらとも言えない」という回答は、実は日本人にはとてもふさわしい意見なのではないかとすら思えてきたのである。
 どんな場合でも優柔不断は結論の先送りであり、いずれはYESかNOかを決断しなければならないことは明らかであろう。にもかかわらず日本人ははっきりした答を選ばないと言うか曖昧さの中に結論を模索しようとする気質を持っているのではないだろうか。

 それが日本人としての知恵なのかそれとも日本と言う四方海に囲まれた地理的地形的歴史的な環境のせいなのか、それを論ずるだけの力は私にはないけれど、日本人のひとつの気質・特質であろうことは理解できる。

 長い前置きになってしまったが、その具体的なあらわれとして私はこの文章の表題に掲げた「蚊遣り、草引き、虫送り」を見るのである。

 理屈の上では蚊遣りは蚊取り線香などをいぶして蚊を遠ざけるための道具のことだし、草引きは農業や造園などでの雑草の草むしりであり、虫送りは稲につく害虫を松明などで追い払うことである。だが結論としてその行為は殺虫であり除草である。

 害虫や雑草は人間にとって不必要更には有害な生物なのだからそこに「いのち」という言葉は普通は使わないのかも知れない。蚊が腕に止まったときにいちいち「これを叩くことは蚊の命を奪うことである」なんぞは考えないのが普通である。雑草は大切な草木や収穫すべき作物にとって有害な植物なのだからそれをむしりとることに雑草の命など考える余裕などないのが当然のことかも知れない。

 本音の意味では蚊取り線香だって実質的な効果は蚊殺し線香だろうし、その原料である除虫菊の成分は殺虫剤と呼ばれている。かつて部屋の中に吊り下げられていた蝿取り紙だって同様である。

 それでも日本人はそうした命の問題に対して、「殺す」という直接的な表現を避けようとした。命は別に動物特有のものではない。植物にだって命は同じである。だから虫送りも草引きも意味としては対象の命を絶つのである。でもそのことを追い払うとか引き抜くという形で表現することで自らの手で相手の命を奪うという直接的な表現を覆おうとした。

 それを優しさと呼ぶべきなのか知恵と名づけるべきなのか分からない。呼び方を変えたところで結論が変わるものでもないことははっきりしているだろう。だが、だからこそそれはまさに「どちらとも言えない」と言う曖昧さに結びつくものではないかと思うのである。

 そしてそうした曖昧さは、個人的にも世界的にも絶望的にすら見える現代の人間関係であるとか宗教的な対立の中で、もしかしたら強力な救いになっていけるのではないだろうかと感じているのである。決断すべきを決断するのは必要なことなのかも知れないし、その決断を他者である政治家であるとか社会的な機構に委ね、その陰に安穏として結果だけをああでもないこうでもないと力なき批判ばかりしているのは潔い態度とは言えないのかも知れない。

 だから日本人の表情のことを外国人は「オリエンタルスマイル」などと呼び、その態度や表情からは相手の意思が読み取れないことを信用できないことの表れとして批判しているとも思えるのである。
 それは日本人自身が自ら決することをどこかで躊躇し、他律の中に我が身を委ねることに慣れてしまっていることの証左なのかも知れないけれど、それでも世の中安穏に進んでいくという事実の中では「それも存外悪いことじゃないんじゃないの」と思えるのである。

 そして、こう言ってしまえば過大評価になるかも知れないけれど、そうした曖昧さは日本人の美意識であり哲学のひとつの表れなのかもしれないなどとひとりよがりの満足にもひたっているのである。

 こうしている間にも少なくとも私の身勝手な思いだけなのかも知れないけれど、理解しがたい犯罪が起き、テロが続く。テロに美意識を望むなどは、もともとないものねだりなのかも知れないけれど、センスも何も感じられない無謀さ、ただただ幼稚な残酷さだけに終始しているかに見えるその姿を見ていると、決断とか対立などから少し引いて曖昧さの中に向かい合おうとする日本人の姿勢はきっと役立つのではないかとさえ思えるのである。

 もしかすると平和とか安定とか満足とか安心などと言った、理屈では金輪際実現不可能なテーマといえども、こうした曖昧模糊とした日本人的な優柔不断さは、満点ではなくても「YES or NO」と言った割り切りの世界とは別なレベルでの安穏意識を静かに浸透させていける手段になり得るのではないだろうかと、ふと考えている自らのこの頃に気づき出した。それをたとえ平和ボケと呼ぼうが暇人のたわごとと呼ぼうがである。

 それにしても今日は来客もなかったし電話もこなかった。それに仕事もしないボケーっとした一日だったなー。これって「平和・・・?」、それとも「怠惰・・・?」、それともそれとも・・・・・


                           2005.11.07    佐々木利夫



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