狂   気
  
 9月11日はニューヨークの貿易センタービルへ2機の民間航空機が乗員乗客を乗せたまま突っ込んで2700人もの犠牲者を出した同時多発テロから4年目に当たる。

 私にとって事件のあったちょうどその日は、9月1〜3日にかけて賑わった越中八尾の風の盆からフェリーで帰って間もなくの出来事であり、何度も繰り返されるビルに突っ込む飛行機の映像がまるで特撮映画でも見るようでどこか現実離れしている印象が深かった。

 そして4年目が近づき、あらゆるマスメディアが当時の映像とその後を取り上げて報道している。被害にあった人々の中には救助活動に携わった消防士も多いけれど、多くが普通に仕事場に向かっていたサラリーマンであり、受けた理不尽な被害に対してテロリストの攻撃は「狂気」だと人々もマスメディアも声をそろえる。

 でも私は思う。狂気と正気の区別はどこで判断するのだろう。ここでは狂気の定義を「多数に対する無差別殺戮」だけに置いているような気がしてならない。
 もちろんそのことは理解できる。そのことを狂気と呼ぶことにも異論はない。だとするなら「恨みで相手を殺した一対一殺人」は狂気の対象から外れるのだろうか。狂気の定義をそんなにあっさりと理不尽な多数性に求めていいのだろうか。

 例えば我が身に潜む狂気を誰が知ろうか。もしかすると全ての人はそれぞれの狂気の中でひっそりと生きているのではないのだろうか。

 私は人がこの「狂気」という言葉を、あまりにもあっさりと割り切って理解しているような気になって使っている様々を恐れるのである。世の中をいかにもあっさりと説明し、それで十分だと思い込んでいるような言い分を恐れるのである。狂気というのはもっと別の意味を持っているのではないか。そんなにあっさりと使い古されてしまっていいのだろうか。人間の気持ちの底の底に潜む誰にも見せず誰にも悟られることすらない、そんな重みをこの「狂気」と言う語は持ってるのではないかと思うのである。

 そう思う背景にはそういう言葉を使うことで思考がそこで停まってしまうのではないかと恐れるからである。そしてそうした思考の停止は、発言者のみならずそうした情報を受け取る側にまでそのまま伝染してしまうような気がしてならないのである。

 なぜなのか。それは、そうした割り切りによって人は無意識に満足してしまうからである。「テロリストの狂気」と定義づけることによって、人はそうした出来事を自分とは無関係な別次元の異常な出来事として納得してしまうからである。
 それはもしかすると納得の強要ではないのだろうか。分かったつもりになり、すんなりと納得してはいるのだが、実はなんにも分かっていないのではないだろうか。

 私はこんなふうに分かったつもりになってしまってはいけないのだと思う。分からないままにどこかで割り切れなさを引きずりながら生活していくという、そんな中途半端な生き方のほうが道理に合っているような気がしてならないのである。

 世の中色んなことが起きるし、そんなことに一々かかずらわっていたことには、自分の生活を守ることなど難しくなるのかも知れない。だからニュース番組のように、「・・・以上で殺人事件の報道を終わります。次は子犬が産まれたニュースです・・・・・」みたいに、すぽんと割り切って暗いニュースの残滓の片鱗さえも見せずに陽気で明るい次の話題にキャスターは瞬時に変身することを要求されるのだし、そうした報道に馴れてしまうと、見ている我々自身もピール片手に戦争の報道を見ることに何の抵抗も感じなくなってしまう。そこには私自身の中に、人は影響されやすいのではないか、言葉を代えて言うなら人は暗示にかかりやすいのではないかという抜きがたい不信感があるからなのかも知れない。

 確かにテレビの映像の多くは視聴者である私自身とは無関係である。ご存知フーテンの寅さんのセリフの中に「オレとオマエは別人じゃないか。オレが芋食って、オマエの尻からプウッと屁が出るかい?」と言うのがある。だから、どんなに残酷な事件があったとしても、ぬくぬくと暖かいこの部屋からは隔絶された遠い地の出来事にしか過ぎないのだし、テレビを前にグラスを傾けている私とはほとんどの場合何の関係もない。

 それはきっと、そうした事件に対して我々自身の余りにも明確な力不足を始めから知っていることにあるのかも知れない。どんなに悲憤慷慨したところでイラクの戦争を個人の力で止めることなど不可能だし、同時多発テロの時計を元に戻すことなど及びもつかないことだからである。

 ただ、だからと言ってそこで思考を停止させそのことについてそれ以上考えることを止めてしまうのは一種の逃げになっているのではないだろうか。不可能を不可能と理解しつつその不可能さに後ろ髪引かれたままこだわり続けるというのも一つの関心の示し方であり、人として必要な生き方の方法ではないかと思うのである。

 人は弱い。だからこそ強くなれ、強くなれと私たちは子供の頃から言われ続けてきたし自身でもそう思いながら生きてきた。だがそれは「弱さには力がない」と余りにも思い込んでいたからなのではないだろうか。強くなれないことそのことが挫折の証拠なのだとどうして思い込んでしまっていたのだろうか。
 弱いのが自分の姿であること、強くなれない事実を承認した上で恥じることなく弱いままの自分をさらけだすのも強さにはない一つの勇気なのではないだろうか。自分のできることにしか挑戦しないでいて、しかもそのことに少しでも抵抗があったり失敗したりすると、すっかり落ち込んで諦めてしまう若者がなんだか最近とみに増えてきているようなそんな気がしてならない。

 そんな若者にとって、そもそも狂気などと言う代物はとうてい理解できないのではないだろうかとふと感じ、同時に狂気と言う語がどんどん軽くなっていことに現代の不安を見るのである。



                     2005.09.20    佐々木利夫



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