もちつきと父と息子
  
 暮れも迫ってくると、あちこちの幼稚園でのもちつき大会の風景がニュースで取り上げられるようになる。よろよろとキネすら持ち上げられない幼児の動きや、時にお父さんが手を貸す姿、おいしそうに食べている顔などに微笑ましさを感じる年末風景である。

 今や家庭でのもちつきは消えてしまった。恐らく「完全に消滅した」と言ってもいいほどに姿を消したのではないだろうか。

 年末からお正月への風景が、時代によって変わっていくのはいい。進歩は変化でもあるのだし、「もちを食べる習慣」そのものだって、どんどん変化していっているのだから・・・。

 しかしそれでも、家庭でのもちつきの消滅は、父から息子への力の伝承と言う、大きな儀式の喪失を象徴しているような気がしてならない。

 「もちつき」、それは一生に一度限りの行事なのではない。正月に向けて毎年必ず繰り返され、時にその家の祝い事などにも行われる大切な行事であったはずである。
 そうした中で、男の子と女の子はそれぞれの役割分担を学んでいく。餅をつくのは男であり、あいどり(均質にもちができるように、うすの中のもちを回したりひっくり返したり、水を加えたりすること)は女の役目である。

 男の子は、ニュースで見る幼稚園児のように、最初はキネを持ち上げることすらできない傍観者から、やがて自力で振り降ろすことができ、もちがつけるまでに成長していく。
 もっともそれまでになる過程は決して容易ではない。もちをつくということは、蒸しあがったもち米を、キネでついても米粒が飛び散らないように、あらかじめ「こねる」という作業が必要なのである。この「こねる」という作業こそがもちつきのための大切な下準備なのである。十分にこねられたもち米は、力強くキネを振り下ろしても決してうすの外へ米粒が飛び散るようなことはないのである。

 「やってみるか」、息子のもちつきへの参加は、この父の一声から始まる。声をかけられた息子は、腰がふらつき、うすの縁にキネをぶつけ、あいどりの母の手を危うくつきそうになり、そうした何年かを経験してやっと「一うす」を仕上げるまでに成長していく。
 そうして一うすはやがて二うすとなり、いつか父の数を追い越すようになる。

 こうして息子は大人の男になっていくのである。もちつきは正月に食べるもちを作るだけの行事なのではない。息子は自分の成長を「うすの数」で知り、父はその「うすの数」で己の力を息子に伝えられたことを確かめることのできる大切な伝承の場であり、息子にとっての貴重な通過儀礼の場だったのである。

 人間の役割をなんでもかんでも男と女に分けて納得してしまうのは異論のあるところだと思うけれど、もちつきにおける男の役目は「攻め」であり、女の役目は「守り」である。
 男女の「攻め」と「守り」は、「狩り」と「家庭」でも分かるとおり、人間の基本的な生活習慣だったと思う。

 男に育児休暇が義務付けられるような時代になった。そのことはいい。むしろ正しい流れなのかも知れない。
 しかし父の育児休暇が、単に母親代わりに止まっているとするなら、それは男親の役割を果たしたことにはなっていない。ミルクをやり、オムツを替え、絵本を読んだり遊園地で遊ぶことで父が親としての努めを果たしていると思い込んでいるのだとしたら、その父はとんでもない誤解をしているのではないかと私は思う。

 父親の子育てとは、決して単なる母親の代わりをすることではない。母親の役割とはまるで異なる目的、子供に「攻め」ることを教え、社会で生き抜く知恵を伝えるために存在しているのではないだのだろうか。
 確かに現代はことごとくと言ってもいいほど職住分離が浸透した。男はそのほとんどがサラリーマンとなって会社勤めをするようになり、仮に経営者になったとしても店はやっぱり住宅とは離れているから、その働く姿を子供に見せることはなくなった。

 そのせいばかりではないだろうが、父親不在とまでは言わないけれど、母親代わりの父親が増えてきて、父親の役割がいつの間にかないがしろにされかかっている。両親による子育ての現状は、母親を二人に増やしただけで満足しているにしか過ぎないように思えてならない。

 「優しい母」と「荒ぶる父」、人はこの二つを得て成長していくのではないのだろうか。
 子供は父親を見て育ち、やがて父親を超え、そして独立し、自立し、大人になっていく。そのためには当然に「守り」の家庭が必須である。
 でも「守り」だけからは自立は生まれない。社会に立ち向かい、己の生き方を確立していくためには「攻め」ることを知り、そして己の中に社会を同化していく過程がどうしても必要になってくるのである。

 引きこもりやすぐに切れてしまう人々、常識では理解しがたい犯罪の増加、全部を他人のせいにして自分を安全地帯や無関係な高みに置こうとする風潮・・・・・、それらは「立ち向かう」ことからの逃避であり、「攻め」を忘れ「守り」しか学ばなかったことの結果によるものなのではないだろうか。

 たかがもちつきに、こんな重さを持たせる必要はないと思うけれど、幼稚園児のとても元気なもちつき大会をテレビで見ているうちに、なんとなくそこに自分のもちつき経験を重ねてしまった。

 もちろん、自分が父親としてきちんと「攻め」の姿勢を背中で示してきたかなんて自問は、それこそ現代の風潮どおりに無責任に忘れることにして・・・・・・。


                     2005.01.01    佐々木利夫



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