もう二月以上も前になるが、NHKが製作した裁判員制度の広報を兼ねたドラマ仕立ての番組を見た。その中で裁判官役が「無関心こそ最大の罪です」と発言していて、このセリフがなんだかとても素直に気持ちの中に入ってきたものだから、メモに残しておいた。

 いずれこの発言を使ってここでのエッセイにでも使おうかという気持ちもあり、机の上にそのメモを放り出したままにしていた。
 だがなかなか気持ちが熟成してこないのである。言ってることは良く分かる。物事に関して、「好き」にしろ「嫌い」にしろ、そうした一定の評価を持つことと、「無関心」とは恐らく天と地ほどにも違いがある。好きならば同調者として共感できるかも知れないし、嫌いなら嫌いで説得するという手段もあるだろう。

 だから賛成反対、好き嫌い、同情嫌悪なんでもいいけれど、そうした一つの感情を持っているならば、そのいずれであるにしろ共通な話題にすることが可能である。
 しかし無関心は違う。そもそもの入り口がないことになる。「無関心」の一言で、そこで紐はプツンと切られてしまうのである。

 そうした意味で、このドラマの発言、「無関心こそ最大の罪です」は、そうした無関心さの示す恐怖を短い言葉で適格に表現していると言えるであろう。そして社会に無関心という病巣がはびこってきているのではないかという思いが私自身の中にあり、だからこそこの言葉に「我が意を得たり」と思い込んだのだと思う。

 でもそうした「我が意を得たり」という気持ちがどうしても熟成してこなかった背景には、実は無関心という病巣が他人事ではなく、自身の中にも増殖してきていることがあると気づいたからでもある。そしてもっと突き詰めていくならば、人はそんなに関心ばかり持ってはいられないという現実に気づいたからでもある。

 「無関心こそ最大の罪です」、それはそうかも知れない。だがその意見は、関心をもってもらいたいと思っている特定の人間の単なる願望でしかないのではないだろうか。

 例えば、裁判員制度は今後の司法制度の根幹に影響を与える大切なシステムだろう。にもかかわらずその意義がなかなか国民に浸透せず、多くの人間がこの制度を知らず、また知っている僅かの人間も裁判員になることに躊躇を示している。しかもその躊躇たるや、制度を理解しないままに面倒くさいとか付き合っていられないなどという、無関心を背景にするものが多いのである。
 だからもっと関心を持って欲しいと願うのは、苦労して司法改革の一環として裁判員制度を作り上げてきた者としては当然のことだと思う。

 だが考えても欲しい。裁判員制度が仮に世の中の唯一無二絶対の誰にも批判することすら許されないような金ぴかの制度(そんなものがあるとしての話だが)であるならともかく、世の中には人間の関心を求めようとするシステムや商品やその他もろもろが、それこそ山のようにあるのである。
 その中の一つを取り上げて、「無関心こそ最大の罪です」なんて言われてしまったら、言われたほうはどうしたらいいのだろう。最大の罪である。相手はまさに「最大の罪」だと指弾しているのである。そんなこと言われたなら、最大の罪に問われる人間なんてそれこそ山のようにいることになるのではないだろうか。

 恐らくこのセリフが作られた背景には、「裁判員制度の絶対的正義」の意識が強く働いているのだろう。だからこそ、そうした絶対的正義に無関心であることは許されないとの思いが深いのだと思う。

 私はそうした思いが間違いだと主張したいのではない。むしろ理解できるとすら思っている。ただ、だからと言って、関心を持って欲しいと訴えるのではなく、無関心そのものを「最大の罪」とすることに違和感を抱いているのである。

 私個人だって関心を持っていることはそれなりあるけれど、逆に「無関心」な事柄を上げろと言われたら、おそらく自分でも驚くくらいに多いのではないだろうか。
 しかも、しかもである。その無関心リストは現に私の保有する知識の中から選んでいるのである。そのことを自慢するわけではないけれど、私の知識なんてたかが知れているから、その知識の中から選んだリストだって分母は当然に私の知識の範囲内のものでしかない。そうだとするなら、私の知らない事柄はすべて私にとっての無関心であることになるのであり、その数たるやまさに星の数ほどであろう。

 その上無関心と言ったってピンからキリまでのレベルがある。ある事柄の意味を知っている程度から、内容を熟知しつつ無関心であることの間には、賛成と反対の意見の差よりも場合よっては大きいこともあるだろう。

 そうした身の毛もよだつほどにも多い無関心の山々のすべてについて、私はその一つ一つに「最大の罪」を負わなければならないのだろうか。

 この意見は屁理屈である。かく言う私だって、税務職員として日常を過ごしていたときは、まさに国民全体が租税に関心をもつことは国が成立するための根幹になるのではないかと思っていた。そして、そうした気持ちは現在でも、「そう思わないのは最大の罪です」とまでは面映くて真正面からは言い切れないにしても、どこかで尻尾を引きずっているし懐かしんでもいる。

 そして一番困るのは、こうした考えを展開することでいくらでも「最大の罪」を免れることはできるのだけれど、それにもかかわらず「無関心こそ最大の罪です」というフレーズが、理屈抜きで心に染み込んでくる事実を否定することができないでいるのである。
 無関心というのは、もしかすると仮面のように人と人との関係を切断し、罪よりもっと罪深い重篤な病のように人を蝕んでいくものなのだろうか。

 キエルケゴールは絶望こそを「死にいたる病」として位置づけた(同名著書、斉藤信治訳、岩波文庫)。しかし、絶望にはまだ僅かにもせよ残されたエネルギーを感じるのに対し、無関心からは何のエネルギーも感じられない。キエルケゴールは、困窮、病気、悲惨、艱難、災厄、苦痛、煩悶、悲哀、痛恨のどれも、そして死さえもが「死に至る病」の原因ではないと断じた(同書P14)。

 どうしてここには無関心が列挙されていないのだろうか。絶望よりもむしろ無関心こそが死に至る病なのではないだろうかと私はふと感じ、もしそのことが当たっているのだとしたら、「無関心こそ最大の罪」と言うメッセージに心がひっかかるということは、なにかの警鐘を感じているからなのではないのかと不安になるのである。

 そわさりながら、この身に潜む無数の無関心の存在を明らかにしてしまった今、私はそれらとどんな風に向き合って(もしかしたら逃げ回って)いけばいいのだろうか・・・。


                            2005.08.07    佐々木利夫


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無関心の罪