これは私のほんの勝手な違和感である。どうって言うことはないことだし、それなり効果もあることだと思っているのだが、それでもなんか気になるのである。

 4月になって、新一年生がランドセルで通う姿を見かける季節になった。ランドセルそのものが果たして合理的な通学カバンなのかどうかも疑問のあるところではあるが、今はそのことには触れない。
 気になったのは、そのランドセルに黄色いカバーをかけようとする運動のことである。警察や交通安全協会や学校の先生、それに親までが入り込んで一斉に黄色いカバーを配布する運動である。

 目的は言うまでもなく、交通安全である。黄色は目立つから、ランドセルにこのカバーをかけ、運転者に注意を促して新一年生を交通事故から守ろうとする運動である。

 そのことは良く分かる。目的も意味も十分に分かる。それでも私はこのことに違和感を感じるのである。
 それは、配布している人が、「いかにも当然」という顔をしているからである。配布することが正義なのだと信じ込んでいる顔をしているからである。己の善意と正当さを少しも疑っていない顔つきで配っているからである。

 ランドセルは、単なる教科書や筆箱の運搬手段たる道具ではない、少なくとも新一年生のシンボルである。買うのは親やじいさんばあさんが多いだろうけれど、けつこう高い買い物だし、決めるまでには、色やデザインや機能など、子供の気持ちも考えながら悩んだはずである。ピカピカのランドセルは、新一年生の輝きであり、それを眺める親の笑顔であり、子供に託した夢そのものの象徴である。

 そうした思いに対して、「交通安全」の大義名分は、黄色いカバーを一方的に押し付け、ピカピカのランドセルを全くの無個性な物体に変えてしまうのである。
 そしてもっとも違和感を感じるのは、配布する人たちが、ちっともそのことに矛盾や抵抗感を感じていないことである。

 ランドセルは目的だけを論ずるなら教科書を入れる背負い袋であり、通学の場でのみ使われることがその役割の全部である。自宅で眺めたり、教室で使ったり遊び道具にしたりするものではない。だから黄色いカバーをかけられたってランドセルはその用法を少しも損なわれることはない。だがそのことによってランドセルは、その生涯のすべて、役割のすべてをそのカバーをかけられた姿で過ごすことにならざるを得ないのである。

 そういえばこれに似たケースは身近にもある。新車のシートがをビニール張りのまま、新品ソファなのに椅子カバー、新しい食事テーブルの花柄防水シート・・・・・。
 そうした人たちは、例えば傷がつくことを心配してブランドのハンドバッグをビニール袋に包んだまま使ったりするのだろうか。

 こんなことはどうでもいいことだし、人それぞれなんだと心のどこかでは思っている。ただ、ランドセルを作った人、買った人、使う人の気持ちがどこかで踏みにじられているような気がしてならないのである。・・・・・勝手な思い込みである。そうなのである。


                            2005.04.09    佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ

黄色いランドセル