シンデレラの物語は多くの女性に夢を与える童話であり、恐らくすべてと言っていいほどの女性の抱く夢そのものである。
苦難の末に得た栄光は、男にだって十分に理解できる胸躍る物語だし、場合によっては一筋の光を頼りに無理解と絶望の末に成功したNHK製作のドキュメント、プロジェクト]に取り上げられてもいいようなサクセスストーリーである。
このシンデレラ物語を一言で言い表す言葉がある。「白馬に乗った王子様が迎えに来た」・・・これこそが我々の知るこの物語の象徴であり、世の多くの女性の潜在的かも知れないけれど心のどこかに潜んでいる願望でもある。。
継母と二人の継姉にいじめ抜かれた灰まみれ(シンデレラとは灰まみれの意味である)の少女が、突然に王女様になるのである。
しかし、この物語を追いかけてみて分かったことは、我々が知っているストーリーは、中世ヨーロッパで千年以上も語り継がれていた原話の、後半部分だけが独立して一つの物語になったものだったということであった。
我々の知っているのは、
「実母が死んで、継姉二人を連れて再婚した意地悪な継母にいじめられ、自分の家にいながら下女同然の身分にされ、それでもその苦しみに耐えた末に王子と結婚する薄幸の少女の物語」であり、この話は実は物語の後半部にしか過ぎないのである。
さてそれでは、原話における前半の部分はどんなストーリーになっていたのだろうか。
実は、シンデレラはもともと王女である。母は世にも美しい王妃であったが、病に犯されシンデレラが幼い時に死ぬ。王妃は自分の死に際して、王に向かってこんな風に遺言する。
「あなたは私が死んだならきっと再婚することでしょう。でもその再婚相手は私よりも美しい人でなければイヤ」
王はこの遺言を守ろうとして多くの妃候補と会うが、死んだ妻よりも美しい女は見つからないまま独り身で過ごしている。
ある日、王は美しく成長した娘シンデレラに気づく。そして「この娘こそ亡き妻よりも美しい。彼女との結婚なら妻の遺言に背くことはない。彼女こそが理想の再婚の相手だ。」と思い込むのである。
そこで王は自分の娘に求婚するのである。シンデレラ物語は、こうした父が娘に結婚を迫るという、現代ではおぞましいと感じるような状況、つまり近親姦をテーマとして始まるのである。
千年も語り継がれてきたということは、この物語は千年の歴史を持っているということであり、当時の風習が近親婚をどう考えていたのかという別な視点も必要になってくるだろう。
そしてそうした苦境から逃れるためシンデレラは城を抜け出し、流浪の果てにやっと、他家の台所の下女として我が身の置き場所を見つけるのである。
人からさげすまれ、過酷な労働の毎日であったとしても、その居場所は灰まみれの少女にとって絶望の果てに見つけた僅かな安らぎの場であった。
もしかすると灰まみれとは、下女として身づくろいさえままならぬ過酷な労働の状態を示すのではなく、我が身を穢れたものとして意識せざるを得ない状況、救いがたいまでに悲惨な精神の状況そのものを表しているのかも知れない。
そして決して本来の身分を明かすことなく過ごせるための必要な姿だったのかも知れない。灰まみれの彼女は、灰まみれでいることで、やっと安心した平穏な生活が送れるようになったのである。
シンデレラ物語は、「一介の不幸な庶民の娘が王妃となった」、そんなめでたしめでたしの夢物語ではなかったのである。
さてさてこれは蛇足であるが、シンデレラが王妃となるきっかけはガラスの靴である。しかし、どう考えても「ガラスでできた靴」というのは現実離れしている。
「きらきら光るガラスの靴」は、いかにも美しく童話の世界にふさわしいような気がしないでもないけれど、その靴を履いてシンデレラは王子と踊ったのである。
つまりは装飾的ではあるかも知れないが、他方では実用的な靴だったと言うことである。それがガラスでできていたというのはどこか納得がいかないものがある。
実はガラスの靴は翻訳の誤りであって、正しくは「毛皮の靴」だったという説があり、もう一つ、靴ではなくて指輪だったとする説もある。
そうだとすると、毛皮の靴を履くとか指輪をはめるという行為には、なんとなく猥褻な感じの設定が含まれていると考えてしまうのは、あまりにも一方的な私の独断に過ぎるだろうか。
この物語は、日本の「鉢かつぎ姫」とよく似ている。灰まみれの姿と鉢をかぶって顔を見せない姿とはほとんど同じような意味に理解できるし、それ以外の継母といい苦難の生活といい、ストーリーの構成はまったく同じように感じられる。そうすると、鉢かつぎ姫が実の父がいるにもかかわらず継母によって屋敷から追い出されるというストーリーは、もしかすると優しい継母と姫とによる、父親からの止むを得ない逃避だったのかも知れないと思えるようになってきている。
ところで、私の読書カードの中に、「メルヘンとは血だらけなものである。カフカ」と書いたメモが残っている。ところがこの引用文の出典が書いていないものだから、本当にカフカの言葉なのかどうか分からないでいる。ネットでいろいろ検索もしてみたのだが、どうも該当するような記述が見当たらない。
だから結局のところこれがカフカの言葉だとは断定できないのだが、それでも、こうしていろいろと童話を追いかけてみると、ぬくぬくとベッドの脇で眠りにつくまでに読んでもらう幸せな物語と感じていたこれまでとは、あまりにも違っていることに気づかされ、時にはまさに「血だらけ」であることも実感するのである。
2005.05.30 佐々木利夫
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