なんでもかんでも自然のままがいいなどと思っているわけではない。人の歴史はどちらかと言えば自然との戦いであり、戦いなんていうと格好がいいけれど言葉を代えれば自然に逆らうことなんだし、もっとはっきり言えば自然破壊と同義だとすら思っている。

 北海道も10月が終わろうとする頃になると、白鳥の訪れや初雪の便りがそこここから聞かれるようになり、冬の入り口に近づいていることを知らされる。今年はなんだかやけに雪虫が多いななどと毎日の通勤に思いを馳せながらも、自然の移ろいはその地域に住む者にとっては社会の要素であり文化そのものだと言ってもいいだろう。

 だからそうした自然の流れに逆らわないことをまさに「自然」なのだと考えるなら、除雪をすることも雨の日に傘をさすことも自然に対する抵抗であることに違いはない。だが、だからと言ってそんなことにまで自然への逆らいだなどと考えているわけではない。例えば雪を保管しておいて食料倉庫の冷房に使うとか夏の冷房に利用するなどというのは素直に理解できる。また、かなりSFじみた発想になるかも知れないけれど、北海道冬の寒気と九州の真夏の酷暑をどうかして季節を越えて保存とか交換とかができないだろうかなどともけっこうまじめに考えたりもしている。

 だがしかし、最近のニュースで取り上げていたこの人口造雪機はどこか変だ。
 スキー場が早目にゲレンデを整備して近隣の旅館も含めて冬シーズンを前倒しし、他のスキー場よりも一足先にスキー客を呼び込むことで町全体の活性化を図っていこうとする発想はその目的も意味も理解できないことではない。

 それはそうなんだが、太いパイプの先から細かく砕かれた氷が勢い良く、まさに雪のように飛び出してくるこの人口雪製造機、そしてその雪が山の斜面に積もっていき、融けないようにシートで覆われるという風景は、どこか変な気がしてならない。

 どこが変なんだと、正面切って言われると実はこちらもしどろもどろになる。製氷と砕氷とそれを吹き飛ばすための費用と自然降雪によるスキー場開設以前に訪れるであろうスキー客等からの収入を比較することのどこが変なのだと問われれば、私の考えなどまさに春の淡雪よりも脆いものかも知れないと自分でも分かっている。

 だから私の「どこか変だ」と思うのは単なる情緒であって理屈ではないのかも知れない。冷蔵庫で氷を作ってそれをカキ氷にして夏の浜辺で涼を求めることと、この人口造雪機とは理屈ではまったく同じものである。
 でもこの巨大なパイプから吐き出される大量のカキ氷を見ている私の直感は、この二つはまるで違うものなのだと言い張っているのである。

 確かに人口造雪機は見てすぐ分かるとおり自然破壊ではない。つい先日(2005.10.27)在日アメリカ軍の再編問題で了解された、沖縄普天間飛行場の代替として同じ沖縄の名護市のさんご礁の海を埋め立てて新たな飛行場を建設することであるとかはたまた都市開発などで山を削って宅地造成するなんぞというのに比べるなら、厳密な検証をしたわけではないけれどこの巨大なカキ氷製造機に自然破壊のイメージはずっとずっと少ないだろう。

 それでも私は「なにか変だ」と感じているのである。少なくともカキ氷は夏に冬を作ろうとしているのではない。氷の冷たさは冬と同じものかも知れないけれど、炎天の太陽とカキ氷は同居しても違和感はない。それに対して人口造雪機は冬でない季節を冬にしようとしているのである。例え一週間、一ヶ月にしろ冬でない時期に冬を作ろうとしているのである。そのことがどうしてもストンと気持ちの中に納まってこないのである。

 そのことが自然破壊だとするならばはっきりした根拠を示せるのかも知れないけれど、この私の直感はもやもやとした、まさに「どこか変だ」という気持ちだけに過ぎないのであり、恐らくそれとは無関係な日常はそんな思いなど歯牙にもかけずに新しい今日を引き連れてくることだろう。

 だから、こんなことを考える自体が「小人閑居して不善をなす」の類型なのかも知れないなどと、この税理士事務所という小さな閉鎖空間に鎮座している孤老の税理士はだんだんと自分の思いに自信がなくなってくるのである。



                            2005.10.20   佐々木利夫


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人口造雪機