実は祖国という言葉の持つ観念というかイメージそのものが、自分の中で十分に理解できていない。だから、そんなあいまいな意識で祖国を論じてはいけないのだとは思うのだが、それでもそうしたあいまいさが現実に私の祖国観であるならば、それもまた許容しなければならない私の現実であろう。

 この祖国という言葉にはどうしてもただならぬ悲壮感が漂っている。それは恐らくこの言葉の中に、分離できないまでに渾然と一体化している「戦争」という避けられない味付けがどうしょうもなく混ざりこんでいるからなのであろう。

 例えばこんな言葉がある。

 「戦争を正当化できる場合がたった一つだけある。それは祖国が侵略され、自分の妻や子供を守るために戦わねばならない時だ」(ジョン・ポール著 原子力潜水艦、北へ P87)

 祖国という語に何を感ずるかは人それぞれだとは思うけれど、多分にこの言葉に集約される感覚が強いのではないだろうか。

 ただ、日本人における「祖国」意識は、もっと別なのかも知れないという気がしている。別、というよりは、誤りを承知で言うのだけれど、どうも日本人には祖国がないのではないかと思うのである。

 その背景は、やはり国境のないことが影響しているように思える。もちろん日本国にだって、主権を持つ国家として承認されている以上国境は存在する。
 しかしながら、良いにつけ悪いにつけ、日本には川を境にしたり陸地に線引きしてそこを国境にするという状況はかつて存在しなかった。

 日本海や太平洋が天然の要害として、万里の長城にも勝る防衛力を日本に与えてきたからである。
 もちろん万葉集に防人の歌が集められているように、この時代(西暦660年頃)にも北九州を中心に朝鮮半島からの侵略に備えていたことがある。
 そして現実に1280年前後には二度にわたって元(蒙古)軍の襲来を受けてもいる(元寇の役)。
 しかしこの元寇の役とても、対馬や壱岐での被害はあったものの、台風に助けられるという偶発的な恩恵もあって、国内に攻め込まれるという惨事には至らなかった。

 黒船も来た。そして日本はやがて日清戦争、日露戦争を経て第二次世界大戦にまで及び、沖縄戦、東京大空襲、そして広島・長崎へと続いていく。
 それでも日本は侵略されることはなかった。アメリカの統治下にあったとは言っても、日本は日本としてそこに存在していたからである。

 ヨーロッパでの飽くことなく繰り返された戦争の歴史を見るがいい。戦争とは侵略であり、負けるということは強制にしろ迎合にしろ、異民族の支配下に入ることであって、言語はもとより混血や文明の衝突は必然であった。

 そうした意味で、日本は国を亡くしたことはなかった。それはもしかすると「日本人の外交の優秀性」を示すことなのかも知れないけれど、逆に言えばそうした歴史が日本人に「祖国」という概念を育てなかったと言えるのかも知れない。

 どうしてこんなことを言うのかというと、「武力攻撃事態対処関連三法」(いわゆる有事三法)が平成15年6月に国会を通過し、それに関連して国民保護法が成立、そして今年三月、自治体が住民の避難、救援計画を作る際のいわばマニュアルである「国民保護に関する指針」が内閣から示された。それに関連したマスコミの興味本位の報道や論調が、「祖国」の意味を改めて考えるきっかけを私に作ってくれたからである。

 こうした有事関連の国会審議は、そもそもそうした有事に対する法制度のなかったこと自体を驚きと共に改めて知らせてくれることになったし、「平和ボケ」という言葉の意味を改めて考えるきっかけを与えてくれた。

 マスコミの論調の多くは、「有事に当り、国民の権利や自由が制限される」ことに集中していた。簡単に言ってしまえば、「いざというときには、自分の土地に有無を言わさず自衛隊の戦車が入ってくる」ことへの問題提起であり、それを「とんでもない国家権力の発露」だと表現する人達の映像を集めて作られた番組であった。

 どこかのワイドショーの一つが、うら若きタレントを集めて、「戦争こわーい」、「自衛隊もこわーい」などと叫んでいるのなら、それはそれで笑って見過ごすこともできるのだが、ニュース番組でこうした取り上げられ方がされるとなると、これは「平和ボケ」などとあっさり言っていられる事柄ではないなと思ってしまう。

 もちろん、「有事」とはなにか、国民の権利や自由がどんな形で制限されるのかは、シビリアンコントロールのもとできちんと決めておく必要がある。「軍」の独走だけは、どんなことがあっても避けなければならない。それは他国のみならず我が国も犯してきた恐怖の歴史の記憶であり、貴重な過去からの教訓なのだから。

 しかしそれにしても、ことは有事の際の行動である。仕掛けてきた相手に対して、言葉で道理を分からせる手段がない場合の話である。近所の交番のお巡りさんを呼んできて解決できる問題でもないし、「立ち入り禁止」の立て札も弁護士も裁判所も機能しない場合の話である。

 にもかかわらず、「自分の庭に自衛隊の戦車が入ってくるのをどう感ずるか」などと言ってはしゃいでいる姿はどこか奇異である。

    
マッチ擦るつかのま海の霧ふかし身捨るほどの祖国やありや

 寺山修司の「祖国喪失」に納められた詩である。疑問文の形をとりながも、ここにはしかし、とてつもなく重い「祖国」がある。

 「・・・日本! おれがどこから来てどこへ行こうとしているのかを、教えてはくれぬ日本! 歴史なんてのは、所詮は作詞された世界にしかすぎぬのだ、大学! 海峡にしぶく恨み、そして身を捨てるに値すべきか、祖国よ。
 身を捨てるに値すべきか祖国よ。・・・・」(寺山修司、「孤独の叫び」から)


 彼は祖国を道しるべにはならないと拒否しつつ、それでもどこかで確実な抱擁を期待している。寄る辺の最後が祖国にはきっとあるはずだと、必死にすがりつこうとしている。

 省みて、ここまでの叫ぶような祖国観は私にはない。私は1940年に夕張という炭鉱町で生まれた。真珠湾攻撃は2歳直前の12月であり、その戦争は5歳の8月で終わりを告げた。だから私の戦争は、戦争そのものというよりは、食糧難であるとか貧しさといった、いわば戦後の混乱であって、しかもその状況は誰もに共通していた。占領もなかったから、「守るべき祖国」というような強靭な意識が芽生えなかったのは、そうした中ではむしろ当然だったと言えるかも知れない。

 それでも「祖国」という言葉には、日本という国や文化を守るという悲壮感みたいなイメージを感じているし、その証左として、この身の中に僅かにしろ、日本語を大切に感ずる心が存在しているとか、こうした祖国についての文章を作ること自体であるとか、戦争や死や宗教などについて語るエッセイがそれなり紛れ込んでいるとか、そんなことを自身にあげつらっている。
 そして同時に、他人より少しは祖国について考えているなどというちっぽけな意識は、結局自己満足に浸っているだけの単なる思い込みに過ぎないのだろうかと感じたりもしているのである。

 世界中がどうしてなのか分からないけれど、めちゃくちゃ混乱していて、いたるところ戦争と独立が対立を生んでいる。宗教や領土や政治や経済、あらゆる多様性が、その多様性ゆえに数多の混乱を生み、他者との対立に拍車をかけている。

 そうした事態は単に「祖国」という言葉だけで解決する問題ではないとは思っている。だがしかし、日本といえどもそうした混乱の渦中から逃れることはできないのであり、そうした時、心の中の根っこのほうに一本、「祖国」という語を、頼りというか信仰のようなものとして握っていたいものだと、この老いぼれ税理士は密かに思っているのである。

 寺山修司をもう一度繰り返したい。

    マッチ擦るつかのま海の霧ふかし身捨るほどの祖国やありや



                        2005.04.02    佐々木利夫


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