杜子春は金持ちの息子であるが、「売り家と唐様に書く三代目」どころか二代目にして親の財産のことごとくを使い果たし、洛陽(当時の中国の最大の都)に流れついて今はひもじさに耐えかね、河へ身を投げて死のうかとさえ思っている流浪の身の若者である。

 そこへ一人の気のいい老人の登場である。老人は彼の望むままに、時の最高権力者である玄宗皇帝よりも贅を極めるような洛陽一の大金持ちにさせてくれる。
 しかし、酒池肉林、思うがままの生活も「座して食らわば大山も虚し」であり、やがて有り金の全部を使い果たして元の木阿弥となる。

 再び洛陽にぼんやりとたたずんでいる杜子春の前に過日の老人が現れる。その老人に向かって、杜子春は今度は仙人になりたいと言いだす。老人は自らを峨眉山(がびさん)に住む仙人であると身分を明かすとともに、杜子春の望みを叶えると伝え、同時にそれと引き換えに修行のための条件を出す。

 玄宗皇帝をしのぐような金銀財宝は無条件で与えておいて、仙人なるためには特別の修行が必要だと条件をつけるあたり、この人のいい仙人の態度もどうかと思うけれど、この条件こそが物語の寓意を引き出すための大事な小道具になっているのだから、その辺のことはあえて問うまい。

 さてその条件とは、「ひたすらの沈黙」である。

 絶壁の下に座らされた杜子春に向かって仙人は、「天地が裂けても口を聞くな」と命じて姿を消す。虎が現れ、大蛇が襲いかかる。山も裂けるばかりの雷鳴と稲妻、滝のような雨、ことごとくを吹き飛ばすかのような嵐・・・、次々と襲いかかる試練に杜子春は必死に耐える。

 やがてよろいをまとい、武器を持った天から来たという大男の襲来にも耐えるが命を絶たれる。そして魂となった杜子春は、それでも地獄の閻魔大王のすざまじい審問にも耐えた。針の山や地の池地獄、焦熱地獄や酷寒の地獄にも、更には身の皮をはがれ煮えたぎる油の鍋に放り込まれるという残酷な責め苦にも耐えた。

 そして最後の試練の時が来る。畜生道に落ちて馬に化体した両親が目の前で鞭打たれる光景を目にして、彼は思わず「おかあさん」と叫ぶ・・・・・・。そして目が覚める・・・。

 誓いを破って仙人になり損ねてしまった杜子春に、仙人はこんな風に語りかける。
 「お前があの時黙ったままでいたとしたら、俺は即座にお前の命を絶ってしまおうと思ってた。大金持ちの意味にも気づいたお前だから、今度は人間らしく暮らせるだろう。泰山の南の麓に俺は一軒の家を持っている。畑ごとお前にやろう」。

 かくして杜子春は幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし。

 この話はやっぱり変だ。杜子春の望みは仙人になることだったはずである。そして仙人はその望みを叶えると約束した。そのための条件が「どんなことが起きようと声を出さない」ことだった。
 なのに結果はどうだ。杜子春が声を出して仙人になるための試験に落ちたのはいいだろう。それは杜子春の責任である。どうしても声を出さなければならないように状況を設定し、この試験をクリアできないように仙人が仕組んだようにも見受けられるけれど、まあそれはそれでいい。杜子春が合格して仙人になってしまったら、この話はなんともつまらないものになってしまうだろうから・・・。

 しかし、この失敗に対する仙人の対応は傲慢である。「黙っていたら即座に命を奪うつもりだった」とは、何と言う言い草だろう。「親の責め苦を無視するような奴は最低だ、いや人間以下だ、だからそんな奴は殺してしまえ」という論理は、一見もっともらしく聞こえる。
 だが、この仙人の一言は、テストの答えをあらかじめ「お前の死」か「仙人失格」のどちらかに決めていたということを明らかに示している。

 杜子春がこのテストを受けるにあたっての約束は、「仙人への合否」だったはずである。それがいつの間にか契約の当事者の一方である杜子春の知らないところで、ものの見事にすりかえられていたのである。

 この仙人は卑怯である。彼には始めから杜子春を仙人にする気などなかったのである。杜子春は心から仙人になりたいと考え、そのために必死に努力した。あと一歩、あと半歩で仙人になれると思い、耐えられないような責め苦にも耐え、必死に沈黙を守り通した。繰り返される試練の数々を、彼は仙人になれるという思いの中で耐えた。

 なのにその信じたことの結果は「自らの死」と始めから決まっていたのである。合格通知の内容は「己の死」だったのである。結果的に落伍したことにより彼は命拾いをした。
 だが、仙人は少なくとも「沈黙の結果は死、つまり試練に耐え抜くことは死だった」という一言だけは金輪際言ってはいけなかったのである。

 仙人と神とは違うだろう。でも仙人は雲に乗り、風を起こし、人知を超えた能力を有した少なくとも「正義の士」のはずである。その高潔であるべき仙人が、どうしようもない金持ちの成れの果てのぐうたら男に嘘をついたのである。

 しかも、「大金持ちの意味も分かったろう」と仙人はひとりで悟ったようなことを言っているけれど、たかだか2〜3年で使い果たしてしまえるような中途半端な金を与えるのではなく、どうして一生かかっても使い切れないほどの額にしなかったのだろうか。
 そうだとしたら杜子春は生涯、皇帝のような栄華を極めた生活を続けることができ、「素晴らしい人生だった」と満足して死んでいくことができたかも知れないのである。

 つまりは「大金持ちの意味を知ること」も「泰山の麓で畑を耕すことで働くことの意味を知ること」も、仙人が自分の中で作り上げた、それこそ独りよがり固定観念に過ぎなかったのである。「俺の意思で他人の人生を変えられる」、そんな自己満足にひたりたかっただけの幻想だと思うのである。そのためには嘘をついても許されると思ったのである。なんという思い上がりであろうか。
 しかも仙人の思惑に反して、杜子春が性格を変えることなく仙人になることに固執し続けたならば、それは「他人の人生観を変える」という試みの失敗を意味するのだから、己の誤りを認める前にその対象を抹殺してしまえばいいのだと仙人は考えたのである。

 この「沈黙は死」の一言で杜子春は仙人の嘘を見破ったことだろう。そして今度もまた、泰山の麓の屋敷も畑もいずれ売り払い、流浪の身を再び洛陽の片隅にさらすことになるだろう。
 親の金を使い果たし、皇帝をもしのぐ財産も使い果たした彼である。三度目に無償で得られた泰山の麓の家と畑だって、いつまでも持ちきれるはずがないであろう。しかもこの泰山の家は、杜子春に与えられた最後の幸運だったはずである。いいや、最後に決まっているのである。

 どうしてかとお尋ねですか。ほれ、諺にも言うではありませんか。財産を失うような悪い出来事は「二度あることは三度」だし、働かなくても他人から利益を与えられるような自分に都合のいいことは「仏の顔も三度」だと。
 だから四度目の奇跡など、もう決して起きることはないのである。起きてはいけないのである。

 そうでなければ、汗を流して得た僅かな金や収穫で、つつましく真っ正直に生きている普通の人たちが余りにも可哀想ではないですか。
 そんな余りにもたくさんの当たり前の人たちの前には、仙人など決して現れることはないのですから。

 えっ!、あなたは、そんな当たり前の人たちは、真っ正直であることそのものに十分満足しているのだから、決して仙人からの恩恵など望みはしないとおっしゃりたいのですか?。あなたは本当にそんな風に思っているのですか?。
 少なくとも私なら、玄宗皇帝をしのぐ財力とまではいかなくとも、宝くじ数百万、数千万程度の欲は今だって十分に持ち合わせているし、そうした夢を叶えてくれる仙人がいるのなら、ぜひ会ってみたいと真剣に思っているのですが・・・・・。

 あなたはそうは思わない。おお、なんと素晴らしいことか・・・、あなたこそまさに仙人です。


                            2005.01.26    佐々木利夫
 杜子春の物語は芥川龍之介の創作童話だと書いたけれど、どうやら中国に伝わる「唐代伝奇・杜子春伝」を元に童話化されたものらしいと分かりました。訂正させてください。2005.03.06

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杜子春 (とししゅん)
  

  物語「杜子春」は芥川龍之介の創作童話である。私たちの世代には教科書にも載っていた著名な話だったけれど、今の子供たちはこんな話など知らないかも知れない。
 とりあえず話の筋を追いながら進めていくことにしよう。