つるの恩返しの話は、いろいろなバリエーションがあるし、どれが基本形なのかよく分からないけれど、私の知っている話は与作という若者と鶴との話である。
与作は深い雪の中で罠にかかってもがいている鶴を助ける。その晩、与作のもとへ雪道に迷った一人の美しい娘が訪ねてきて「おつる」と名乗り、やがて彼の嫁になる。
生活に追われる彼のために、おつるは機を織る。おつるは決して機織りの姿を見てはいけないと告げる。織りあがった布は殿様の目に止まり高く売れる。殿様はもっと布が欲しいと与作に命じる。
布を織り上げたおつるはやつれた姿で、しばらく布を織るのは休みたいと訴える。ところが殿様の無理難題は更に続く。
与作は布を織るたびにおつるがやせていくのを感じ、止められているを知りながら、つい織り場を覗く。そこにはおつるの姿はなく、一羽の鶴が自らの羽を抜き取って布を織っている。
「私はいつぞやの鶴です。助けていただいた恩返しにきたのですが、姿を見られたからにはお別れしなければなりません」。
哀しそうに鳴きながら空の彼方へと飛び立つやせ衰えた一羽の鶴、哀しい夫婦の別れである。
与作が時におじいさんおばあさんになったり、殿様が狡猾で利にさとい与作の友達に代わったりすることもあるけれど、話のパターンにそれほどの違いはないだろう。
私はこの話に、どうしょうもない男と女の弱さを感じてしまう。
与作は優しいけれど自立のできない男である。だいたいが訪ねてきた娘と生活力もないままに結婚してしまうこと自体がそれをあらわしている。
しかも機を織るたびにおつるがやつれていくのを知りながら、殿様の権威に従うことしかできない男である。彼には、「妻を守る、家庭を守る」という基本的な意思力が欠けているのである。
だがしかし、おつるにも非がなかったわけではない。おつるには始めから男の弱さが分かっていたはずである。男がやがて愛情よりも豊かさを求め始めることを知っていたはずである。
にもかかわらずそれを知りつつ高価な布を織った。世にも稀な貴重な布を織って夫に渡し、町で高く売りその金で普段買えない品物や美味いものを買い生活の糧とするよう勧めた。
優しい男と鶴女房との破局のシナリオは、その最初の出会いの時に既に仕込まれていた。破局以外に、おつるが我が身を守る手段がなくなること、そうしたぎりぎりの事態になることを、おつるは出会いの最初から分かっていたはずである。
おつるは我が身を削って布を織った。出来上がった布は自身の血であり肉であり命である。布さえ織らなければ、こんな結果にはならなかったかも知れない。
だが彼女は、罠から逃してくれた優しい与作への恩返しには、嫁となって生涯を共に過ごすという無形の奉仕だけでは十分でないと思った。心だけではなく、具体的な「形あるもの」を与作に捧げるのでなければ、命の見返りとしての恩返しにはならないと思い込んだ。
おつるはそうした豊かさに馴れるという心の変化が、将来与作に起きるであろうことを予期つつ布を織ることを決意し、必死の思いで一つの呪文を唱えた。「見てはいけない」。やがて起きるであろうことを知っていたからこそ、彼女は「織る姿を決して見てはいけない」と、守れぬ約束を与作にさせたのである。
おつるの予想通りに与作は何度も布を要求してきた。動機はどうでもいい。やつれていく姿を知り、布を織るのを休みたいと訴えているにもかかわらず、彼はおつるに布を織ることを求め続けた。
このままでは私は死んでしまう、おつるはそう思ったことだろう。与作は私が死ぬまで布を要求するだろう。一度覚えた豊かさへの誘惑は、決して後戻りできないことをおつるは知っている。
そして我が身を守るたった一つの呪文が、「決して見るな」であった。与作が機織りの姿を見なければ、おつるは死ぬまで機を織らなければならない。そしておつるの死は、そのまま布の終わりである。
彼女の中で、布は恩返しのたった一つの手段である。布の終わりは恩返しの終焉である。その時が近づいてきた。だからと言って、これは自分が受けた、命と等しい重さの優しさへの恩返しである。与作との結婚は自分から求めた結果である。それを自らの手で壊すことなどできはしない。
与作が機を織るおつるの姿を覗きに来るか、来ないか。来なければ織り続ける私はいずれ死ぬしかないし、来たときは破局が訪れる。見ないという約束を守ることはおつるへの愛の証であり、機織りの姿を見ることは裏切りである。愛され続けることは死であり、裏切りもまた永遠の別離を示している。そのはざまで、おつるは悩んだはずである。
「決して見てはいけない」。呪文は発動された。これで恩返しは十分に終わったのである。約束を破ったのは男である。おつるは死ぬまで布を織ることを覚悟しつつ、たった一つの呪文に自分の命を賭けた。
男は自分の弱さを悔いるだろう。おつるを守り切れなかった自分の不甲斐なさを生涯背負っていくことだろう。これでいいのである。
与作はおつるの姿を覗くことで、己を知り、おつるの優しさを知り、結果的ではあるけれどおつるを助けたのである。もちろん助ける意思があったわけではない。しかしそれでもおつるは死を免れたのである。
飛び立っていくやつれ果てた鶴の姿は、そのまま与作の裏切りの象徴である。守りきれなかった己の不甲斐なさの象徴である。それでもおつるは満足だったのではないかと思うのである。僅かに残された力を振りしぼって飛び立つことが、優しかった与作へのせめてもの別れのあいさつである。
鶴女房などとそんな話を殿様は信じないだろう。気まぐれな殿様のことである、布を持ってこない与作の首などあっさりとはねたかも知れないし、はたまた布のことなどすぐに忘れてしまったかも知れない。それでも鶴に戻ったおつるにはもう関係のないことである。おつるは与作を信じ、与作のために命がけで恩を返したのである。助けてもらった優しさに、必死に報いたのである。それでいいのである。これで良かったのである。
昔話には、動物だけではなく木や花、風や水などの自然までが人間と交流するものが多い。昔は人はそうした様々と話をしたり気持ちを交わすことができたのだろう。もちろん、中には鬼も妖怪もいたし、悪い動物も出てくる。だから、それらがすべて人にとって優しい存在ばかりではなかったかも知れないけれど、その多くは人の苦しさを分かってくれて、耐えられない今を慰めてくれるものだった。
しかし、逆に現代はそうしたものをすべてこそぎ取ることで成長を続けてきた。他者とのかかわりを残らず切り捨てることで、人は未曾有の繁栄を思うがままに謳歌してきた。
動物も花も木も、風も山も小川も海も、ペットにしたり鑑賞するだけになって、仲間にはならない存在となった。だから犬も猫も狸も、神社の大銀杏も、満開に散る桜も、人の心に訴えることをしなくなったのである。開発で切られた大木も、夜な夜なうめき声をあげて人間の非道を責め続けることをしなくなったのである。
だから人は、人からも動物からも自然からも、はたまた神からも見放されて、繁栄というとてつもない豊かさを前にして、空前の孤独のど真ん中にポツンと取り残されてしまったのである。
あなたは今、素晴らしい布を手に入れた。けれども飛び立った鶴は二度と戻って来ることはないだろう。あなたはあんなにも愛された存在との約束を破って、機を織る鶴の姿を見てしまっのだから・・・・。
2005.05.26 佐々木利夫
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