すべてがよい方向へ向かうラッキーな男の物語である。

 独り者の若者はいくら働いても暮らしが楽にならず困り果てている。
 ある日観音様が夢枕に立って、「どんなものでも最初につかんだ物を決して放すな」と告げる。
 そのきっかけとなったのが転んだひょうしに手に入れた「藁しべ」(稲の藁の芯)である。やがてその藁しべは顔の周りをうるさく飛び回る虻を縛りつけたことでそれを欲しがった子供に与えて代わりに蜜柑をもらう。その蜜柑は喉が渇いて道端にうずくまっている女性に与えたことで布に代わる。布は彼の目の前で倒れた馬の始末に途方に暮れている飼い主に渡すことでその馬に代わり、やがて元気になった馬を引越し用の馬を探している長者に渡して代わりにその長者が残した家屋敷や土地を手に入れることになる。そこでその若者は長者になって幸せに暮らすことになるのである。

 まあ、観音様のお告げである「つかんだ物を決して放すな」との言いつけをあっさりと破って子供に渡してしまうという、最初からお告げ破りをこの若者はしてしまうのだが、それはこの物語の本質から離れることになるので、いささかの疑問を提示することで先に進むことにしよう。

 つまりはこの物語は次々と物々交換によって更に価値の高いものへと交換していくという利に聡い若者の成功の物語である。

 ところで、最近見たNHKのアニメ「雪の女王」の物語の中で、気のいい男が牛の交換でアヒル→リンゴと段々に価値を失っていくものと交換していく話があった(原話にこの話は見当たらないのでNHKの創作か、または別の物語を付け加えたのかも知れない)。物語はその男の帰りをひたすらに待っている妻が夫の持ち帰った品物に満足するということでめでたし、めでたしとなる。
 また「ジャックと豆の木」では少年は大切な牛を数粒の豆と交換してしまうというところから物語が始まる。

 こうした外国の物語からするなら、この藁しべ長者の物語はまったくの正反対のパターンをとる。外国の例では損の発生とは別の形で損を上回る新しい価値を見出すというのに対し、藁しべ長者の物語の結末は結局は「長者」になったことそのものに価値を見出している。つまりこの物語はあふれるほどの金持ちになることが成功で幸せなのだと教えているのである。

 日本の昔話には、なぜか意地悪でけちな爺さんが金持ちで(いずれその金を失うことになるにせよ)優しく親切なお爺さんが貧乏であるとする設定が多い。こうしたパターンは逆に言うと意地悪が金持ちになるための条件なのではないのかとも思えるのだが、寓話なのだから貧乏でも親切なほうが幸せなのだと伝えていると普通は考えてしまう。ところが最後のほうでその貧乏なおじいさんを金持ちにしてしまうことが多いので、どこか矛盾が生じてしまうような気がしてならないでいた。

 なぜかと言うと、優しいことが幸せであってそのことにおじいさんおばあさんは互いに労わりあい助け合うことで満足しているのだから、わざわざ意地悪爺さんに象徴されるお金持ちにさせる必然性に乏しいのではないかと思うからである。

 もちろん「優しい長者」であることは一つの理想なのだろうが、殿様にしろ長者にしろ権力やお金を持っている者は誰として優しくないという設定がなぜか最初から存在しているのはどうしてなのだろろうか。
 それについて私は、伝承は優しくないから金持ちになれたというのことを言いたいのではなく、恐らくは長者であることを維持していくためには優しさは邪魔になる、優しさと長者とは両立しないということを伝えているのではないかと密かに思っているのである。

 長者であり続けるための基本的な仕事とは利潤の追求と資産管理である。毎月々の収益計画のみならず、使用人や財産を維持し管理していくことがどれほど大変かは容易に想像できることであり、これは洋の東西を問わない万古不易の事実であろう。
 諺にもある「座して食らわば大山もむなし」は、現実世界にも通じる冷徹な法則なのである。

 藁しべ長者はこの管理のための苦悩をこれから延々と味わうことになるのだろう。取引相手のみならず知人や親子・親類縁者などとの人間関係も一層複雑になるだろう。それは相続も考えると死後まで続くのである。その苦労は決して優しさで解決する類のものではない。
 むしろ、そうした資産の運用管理にたけた者こそが長者と呼ばれるのではないだろうか。つまりは管理能力のない者や浪費家などは決して長者になれないということである。

 さてここで藁しべ長者を見てみよう。彼は「働いても働いても生活が苦しい」という勤勉な若者と言う設定であるが、あちこちに伝わる物語の多くはあんまり働く意欲のない若者が主人公とされているケースが多い。
 どちらにしてもそうした男に長者としての資産管理能力があるとは到底思えない。なぜなら、彼には自ら努力して財をなすという気概も知力もないのである。しかもここでの主人公は神頼みで成功を望むような安易な考えの持ち主であるということである。

 観音様が助けてくれなかったならば、彼は決して長者になることはなかっただろう。しかも、色々物語を読んでみたが、彼がそれほど信仰に厚いとも思えないのである。どうしてこんな若者に観音様が手助けしたのか疑問のあるところであり、場合によってはこの成功譚は観音様の気まぐれかも知れないけれど、それでも彼は神頼みによって他者に助けられて成功することを望んだのである。

 恐らくこの物語は事実の伝承ではあるまい。民話や伝承の多くは人々の願望が生み出したものだと考えられるからである。そうだとすれば、人は神頼みで成功するという物語を長い間広め伝えてきたのである。つまりは、働かなくても誰かにすがって金持ちになれることを人は自身の願望に重ねてきたということである。

 「困ったことが起きたら誰かにすがって助けてもらえばいい」、この物語はこんなことを伝えているような気がしてならないのである。
 しかもこの若者は、働いても楽にはならないのかも知れないが、飢え死するほどの切羽詰った状況にいるわけではない。我々俗人がふと思う「もう少し金があったならなあ」とか、「どっかに良い話が転がってないかな」と言う程度のことで、決して絶望の果てに暮らしているのではない。この程度なら、最近のフリーターやニートなど、いやいや普通に生活していて中流を自認している我々にだって十分通用する考えである。

 努力の結果を観音様が認めて金持ちにさせたというなら分からなくもないけれど、この程度の動機と願望に報酬を与えて金持ちにさせると言うのはむしろ誤りなのではないだろうか。

 まあ、考えて見ればそのほうが人生楽であることには違いないが、神頼みの風習は結局自立への道を閉ざしてしまうのではないだろうかと、他人の成功譚にどこかでケチをつけたがる男は、我が身の成就しなかった神頼みに「世の中そんなものさ」と密かにうそぶいているのである。


                            2005.10.04    佐々木利夫


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