優しいってなんだろう
  
  中途半端な優しさは、本人はいっぱしその気になっているとしても、どんな場合でもどこか腰砕けになる。そしてどこかで自分が逃げ出していることを、少なくとも自分はよく知っている。

 「命がけ」とまでは言えないにしても、ある程度徹底して優しさを持ち続けることっていうのは、実はとんでもなく難しいことなのかも知れない。
 だから優しさとにはどうしても切り売りというか、どこかで区切りをつけざるを得なくなるというか、「はい!、ここまで」と自分に言い聞かさなければならない時がいつか必ず出てきてしまう。

 そうした優しさの中断がどんな結果を招くのかは、実は優しさというのは得てして一方通行なものであることから、提供する側の預かり知らないところであることが一番問題で、同時に怖いところでもある。そしてそれにもかかわらず、そうした中途半端な優しさというのは、実はいったん走り出すとなかなか止められないものだし、無責任なぶんだけどんな場合も人を傷つけてしまう恐れがある。

 しかもそうした優しさの背景には、相手に対する一方的な善意のアクションが、想いとは裏腹に相手のことなどなんにも考えていない自己満足100%のエゴそのものに裏打ちされているのではないかなどと、とんでもない疑心が密かに生まれてきて、その答えを探しつつしかも同時に答えを見つけたくないと密かに思ったりもしてもいる自分がいる。

 今年のノーベル平和賞の受賞者は、ワンガリ・マータイ女史だった。3000万本以上の植林活動の実績に加え、貧しい人々の社会参加意識を高め、女性の地位向上にもすざまじいエネルギーを投じ、今もなお投じ続けている、1940年生まれ(なんと私と同い年である)のアフリカ、ケニア出身の女性である。

 しかも彼女の優しさは、私の考えるような甘っちょろい優しさではなかった。平和の意味を単に戦争がない状態にとどまらず、その背景としての貧困にまで掘り下げ、生活の基盤としての自然に向かい合うことを己への課題とした。「政府がすべきだ、豊かな他国が援助すべきだ」、こうした依存する心を徹底的に変えるところから彼女の運動はスタートする。

 なんというすざまじい優しさなのだろう。こんなにもたくましく、力強い考えを、いつの間に我々日本人はすっかりとなくしてしまったのだろうかと、平和賞とは別のレベルでの感慨も伝えてくれる彼女の人柄であった。

 彼女の優しさは、時に「屈しない力強さ」であり、時に「傍若無人の厚顔」であり、時に「相手との同化」であり、そして耐えることでもあった。
 彼女は日本から「もったいない」という考えを学び、それをキーワードに新しい運動を展開しようとしている。

 バブルがはじけてもなお日本人は、経済成長こそが唯一の成功の指標であると信じ込み、ブランドに身を包み、グルメに明け暮れることこそが豊かさの証なのだと、その頑迷な考えを変えようとはしない。

 世の中がとんでもなく狂いかけているように見えていてもなお、狂っているのは自分ではなく、異常なのは平均値から外れた自分とは無関係な向こう側の人間なのだと思い込もうとしている。

 募金箱に小銭を投げ込む優しい自分の姿にしがみつくことで、そうした他人事(ひとごと)を更に遠くに押しやっている現実がある。あなたにも、そして私にも・・・・。


                     2005.02.23    佐々木利夫



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