急ぐ必要はない。信号が赤に変わりそうだからと言ってあわてて駆けだす必要はない。出かけるのだって、近いところならわざわざバスや電車を使うことはない。少し遠くたって大丈夫だ。そのぶん早めに歩き出すだけでいいんだから。

 急がねばならないほど忙しい人生ではなくなった。後ろから歩いてくる人に追い越されても、せわしなくなった時代に追い越されたと感じても、ここは自分の分をわきまえて歩くのがいい。駆けるなんてのは欲張りというもんだ。これでいい。これでいい。

 どこまで心底そんなふうに思えているか疑問なところもないではないが、定年を迎えて場末のワンルームマンションの一室に税理士事務所と名づけたひとりだけの空間を作る。「税理士事務所」なんて名前はいかにも格好良いけれど、自宅から歩いて50分、「○○庵」とでも名づけたいくらいのちっぽけな女房殿公認の書斎である。

 46歳で原付バイクの運転免許を取り、2年後に四つ車の免許を取った。一気に背中に翼が生えたような気がしていささかはしゃぎ過ぎ、原付では免停を受け、乗用車でも何度かスピード違反の切符を切られた。
 稚内も知床も襟裳も、北海道中が手のひらに入ったようになり、フェリーに車を積めば日本中が私の手の中にある。

 充分に乗った。だから61歳で車を捨てた。車のついでに腕時計も捨てた(実は未練がましく免許証はまだ有効だし、腕時計も机の引き出しの中に残ったままになってはいるのだが・・・・)。

 人との約束に時間を決めるのは当然だけれど、時間に追われない生活というのは、体力さえ十分ならばまさに自分が主人公の理想空間である。
 事務所から札幌歓楽街「すすきの」までだって、途中の大通公園や狸小路を眺め、しばらくぶりだなと薄暮に輝きを増していくネオンを浴びながら、歩いてゆっくり2時間そこそこで仲間との交流場所へと着く。
 一番遠い仕事先へだって荷物さえなければ、かばん片手に1時間と少々だ。

 自宅と事務所の往復も、酔って足元の覚束ないときなどはJRや地下鉄のお世話になるけれど、片道50分歩くことが習慣になってしまうと、違った道筋や変わる季節に見慣れた景色さえも新鮮である。大雨や猛吹雪だって、少し大き目の傘をさし、毛糸の帽子を目深にかぶる。ズボンのすそ濡らしたり風交じりの雪片を頬に受けることにはなるけれど、自然に逆らって歩くことそのこともそれなり楽しいものがある。

 最近2年ばかり減少が止まり始めているのが問題なのだけれど、歩き始めてから、体重を20キロばかり減らすこともできた。
 もちろん歩くだけではなく、自宅では酒を控えるとか、野菜と魚中心の食生活にするなど、そこそこ気を使ってはいるし、時々の水泳や夏の三角山(311メートル)登山も大事な要素になっている。おかげで毎朝測っている血圧もすっかり安定し、職場にいた頃には10年ほど飲んでいた血圧の薬も医師の指導のもと飲まなくなって6年になる。

 事務所から歩いて2〜3分のところに西区民センターの図書室があり、もう更に5分くらい歩いたところには山の手図書館がある。自宅への道すがら2〜3分遠回りすれば、生涯学習センター「ちえりあ」が待っていてくれるから、この三つを組み合わせれば、小説から専門書、そして音楽CDにいたるまで無尽蔵な蔵書を我が物にできる。
 気に入らない本ならば著者には申し訳ないが途中で読むのを止めるのも自在である。一週間に2冊前後の、主に寝る間際の暇に任せた気まぐれ読書である。

 おまけにインターネットの常時接続は、居ながらにして国会図書館をもしのぐ情報の倉庫である。検索方法がいまいちなものだから、かゆいところに手が届くというところまでにはいかないものの、色んな人や企業が色んなホームページを自作して、わいわいがやがや、好き勝手な意見を発表しているのを見るのは楽しい。

 事務所を維持していくのだから、それなり仕事をしなければならないのだけれど、実は退職以前から、かくもあろうことを密かに予測しそれに備えてへそくりを蓄えておいたこと、そして家賃の安い事務所を見つけたこと、それにこれもけっこう大事な要素でもあるのだが、身の丈にあった人との付き合い方と昼飯自作の技さえ手に入れることができれば、小さい仕事でも十分にやっていけるのである。しかも、車のないことと徒歩通勤だけでも、それなりの経済効果を与えてくれる。

 仕事の少ないことは収入の少ないことでもあるのだが、その分だけ自分の時間が豊富であるということであり、その時間をまさに自分の好きなように使えるということなのである。
 「小人閑居して不善をなす」の例えもあるが、他人(ひと)に迷惑かけないという前提を置けば、現在程度の閑居に伴う不善は、逆に言うと己にとっての「大善」であり、これこそがゆっくり、ゆっくりの根っこでもある。わざわざこの時間を切り売りして新しい仕事を加える必要はない。

 さてさて、さりながらこの年になって気になることといえば、こうした「自立できるのんびり」をいつまで続けられるだろうかということなのだが、健康とへそくりはまあまあなんとかこれからも努力することとして、心配なのは不意打ちで来る「ボケ」でもあろうか。

 「政治家はボケない」という話を聞いたことがあり、そういわれてみれば御高齢の政治家の皆さん、それぞれにかくしゃくとしているようだ。
 そして、政治家がなぜボケないかということに関しては、実に確信的とも言える伝説がある。それは「やつらは人を喰って生きているからだ」と言うものである。

 なるほど、それはそうかも知れないが、これまでの60有余年、「純朴と争い知らず?」をモットーに過ごしてきたこの身にとってはそこからが問題である。いまさらこの期に及んで人を喰いだすことが可能かどうか。

 ところで、私の友人に「うるか」にはまっていると自称している奴がいる。熊本が美味いの、宮城はどうだのと勝手にうんちくを傾けている。「うるか」なんて聞いたことないぞと調べてみたら、なんと鮎の内臓の塩辛のことらしい。
 想像しただけではとても美味いとは思えないのだが、「うるか」に限らず、世の中には喰えそうにないものを美味いといって食う奴がけっこう多いから、そんなのに比べたら人を喰うくらいのことはなんとかなるかも知れない。
 ボケないために人を喰う自助努力・・・・・・、なんとか頑張ってみましょうかね。

 それにしても世の中、煮ても焼いても喰えない奴が多過ぎるからなぁ・・・・・・。



                            2005.04.04    佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ


ゆっくり、ゆっくり