人生の大半を税金漬けで暮らしてきたこの身にとっても、「世の中税金だけで動いている訳ではない」ことぐらい、退職を待つまでもなく分かっている。

 とは言っても、租税は国の財政の根幹をなすものだし、その中に我が身を投じた者としては、大げさであることを承知の上で「税こそ我が使命」と考えながら仕事をしていたとしても、それはそれで職場に対するまっとうな向き合い方だったと思っている。

 だから税は、憲法から租税法にわたる国民の基本的ルールに基づいて決定されるものであり、これは誰かの請け売りになってしまうけれど、「租税は法で定められたより一円たりとも多くてはいけないし、一円たりとも少なくてもいけない」を、職業の基礎に置いていたことに、どこか誇りみたいなものを感じている。

 さて、そうした意味で税金は、租税法律主義に基づくものではあるが、個人または経営主体たる企業と「一対国」の関係で成り立っている。

 税を担うべき源泉を何に求めるのかは難しい問題だけれど、税金は基本的には現金で納めるものだから、担税力もまたそれに耐え得るものでなければならないだろう。
 したがって一番分かりやすいのは利益であるとか所得をその基礎に持ってくるというものである。所得税や法人税、相続税や贈与税などがそうしたものであり、消費税もまた消費の基礎は利得にあると思われるのでこの範囲に含めてもいいのではないだろうか。

 ところで、税金が一度国に入ってしまうと、その性格はガラリと変わる。個(法人も個である)から国への流れなのだから、その反対の国から個への直接的な流れがあっても当然だと思うのだが、現実は決してそんな形にはなっていない。

 一定の利益があって一定の租税が課される。任意に納税されないときには差し押さえ、公売といった強制手続きでその滞納税金は徴収される。強制される本人にして見ればいろいろ言い分もあるだろうが、基本的にはそうした流れが例えば期限内に自主的に納付した人たちと比べて公正な手段であると思うし、そのことに異論はない。

 また税務調査も同様である。ある人の税が過少の疑いがあるとき(判例では疑いがなく、単に正しい申告かどうかの確認でも良いとされている)、国はその疑いを解明するために調査をすることができる。
 それが税務署の仕事の一つであり、場合によっては脱税を犯罪として処罰するために国税局の査察官による強制調査まで用意されている。

 これらは一つの社会のルールであり、それなしに適正な申告など望めないのだとするならば、それは当然のこととして認めていいであろう。

 だが、例えば昨年10月に新潟県中越地方に大きな地震があり、多くの建物が倒壊した。そうした時、その建物を元通りにすることに関して、税は直接は役に立たないのである。
 もちろん名称はともかく国や県や役場から見舞金が出る場合もある。だがその見舞金で建物が元通りなるかといえば決してそんなことはない。建物復旧に関しては、僅かばかりの補助金とせいぜいが低利か無利息の貸付があるだけで、ほとんどの復旧は自力でやらなければならない。

 被災者が過去にどんなに租税を納めていたとしても、そのことと被災に対する対策とは無関係である。
 「それはそれでいいのだ」という理屈も分からないではない。租税は国が個人的な思惑を離れて公共的な施策に使うために集めるものであり、集められた瞬間に「個」とは無縁のものになるという理屈は、恐らく正しいのだろうと思う。

 100億円を納めた人にも、一円も納めなかった人に対しても人として平等な取り扱いをするというのが、国であるとする考えも分からないではない。租税の目的なり性質はむしろそのように考えたほうが正しいのだろう。

 個に対する国の問題はしかし、逆の場合にはどこまで手を尽くすのかという問題がどうしても残る。一番分かりやすい例が「申請」という手続きである。
 国に何かを求める場合には、必ずといっていいほどこの「申請」することが要件とされる。そしてそこが問題でもあるのだが、「申請」がされてない場合には、国は何をしなくてもいいとされているのである。仮に、ある事実を知っていたとしても、申請がないことで何もしないことが免責されるのである。

 納めるべき税を納めないものに対して、国は権力でその納付を実現させる。そのことはいい。
 しかし、生活に困窮し、犯罪に怯え、教育から放置されている者に対し、国は「申請」なしには決して手を出そうとしない。

 もちろんそれはそうした事実を「知らない」場合もあるだろうし、限られた公務員数の下ではすべてを知ることは不可能だというのかも知れない。だから申請を待って動く、それは分からなくはないのだけれど、でもそうした思いとは別に「知らないことは国の驕りなのではないか」という、どこか割り切れない感情が残ってしまうのも事実なのである。

 助けを必要としている多くの人々を、「探し出して助ける」という努力が、例えば「犯罪者を摘発して裁判にかける」とか「脱税者を探し出して正当に課税する」などの努力と同じようなレベルで、国にとっても必要な行動ではないかと、ふと感じるのである。

 「そんなこと言い出したら国中が公務員だらけになってしまい、人も予算も際限なく足りないことになって、どんどん税金ばかり高くなるよ」。
 それはよく分かるし、こうした考えが現実的でないことも理解できる。それでも、こうした国として「個」に直接向き合うという姿勢そのものは、どこか国(もちろん地方も含めて)の基本的な役割として「国としての意味」の中に組み込まれていてもいいのではないだろうかと、思ったりもしているのである。
 それは例えば「御用聞きとしての国」みたいな機能として・・・・・・。

 「こんにちは、国です。何でもします。何か困ったことありませんか?・・・・」とか、「あなたは生まれてからこれまでにこれだけの税金を納めました。だからそれを上限に無条件で災害被害を補助します」なんてこと、考えること自体、やっぱり変?・・・・。変だよね・・・・。変に決まってるよね・・・。でも・・・・・・・・。

             


                            2005.04.25    佐々木利夫


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御用聞きとしての国?