特にキリスト教を信じている身ではないから聖書を教義書のように思い込んでいるわけではないけれど、それでも聖書の中には人を引きつける魅力あるストーリーがけっこう溢れている。

 そうした数ある物語の中でも私はこの「バベルの塔」が大好きである。最初は「神へ届こうとする塔を建設し始めた人々に対する神の怒りの物語であり、みせしめに塔は破壊され、人々は互いに違った言葉を話すようにさせられた」というような理解の仕方だったのだが、改めて聖書を読んでみると少し違うことに気づいた。
 そして、この物語は私の理解よりももっと恐ろしい内容を表したものなのではないかと思うようになってきたのである。

 物語の背景に「神の怒り」があったとするならば、私はそんな思いに駆られることはなかっただろう。神が怒りにまかせて天へ届くような塔を建てようとした人々の言語をバラバラにし、その塔を破壊したのならば、神はまだ絶対者としての力を保有していることを誇示したものとして理解できるからである。

 だが聖書の記述による限り、神は怒ってもいなければ塔の破壊も行ってはいなかったのである。バベルの塔に関する部分はそれほど長くはないので(旧約聖書、創世記、11章)、その全文を掲げてみよう(日本聖書協会、数字は節)。


 1  世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。

 2  東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に
  平野を見つけ、そこに住み着いた。

 3  彼らは「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。
  石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。

 4  彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして
  全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

 5  主は降ってきて、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、

 6  言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、
  このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、
  妨げることはできない。

 7  我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、
  互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 8  主は彼らをそこから全地に散らされたので、
  彼らはこの町の建設をやめた。

 9  こういうわけで、この町の名前はバベルと呼ばれた。
  主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから
  彼らを全地に散らされたからである



 読んですぐに分かるように、神は決して人間の所業を怒ったのではなかった。しかも天まで届こうとする塔を破壊することもあえてしようとはしなかった。
 ここに表われている記述の意味は紛れもなく神の人間に対する恐怖である。

 神はバベルの塔のある町の姿を見て、「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」(6節)と感じたのである。つまり、「全地に散らされることのないように」集団化・組織化された人間の強大な力には、神の力すらも及ばないことを神自らが悟ったというである。このままでは人は際限なく肥大化し、神に届き神を超える、神の力をもってしてもそれを制御することはできない、神はそう恐怖したであろうことがこの6節の中に読み取ることができる。

 雷(いかずち)を打ってその塔を破壊することなど、神にとってはたやすいことであったろう。これ以上の高みに近づいてはいけないと何らかの警告や奇跡を示すことも可能であっただろう。

 だが神はそうした手段では、人間の飽くなき欲望を止めることなどできないことを町の姿を見たことで悟ったのである。いまこの塔を破壊することで神への道を閉ざそうとしても、人はまた明日、新しい塔を建て始めるだろう。再び天まで届こうとする塔の建設を望み、有名な町になろうとする欲望を決して諦めることはないであろうことを理解したのである。

 かくして言葉は混乱させられながらも「全地に散らされた」全民族の中からイスラエル民族が選ばれ、バビロンからカナンの地へと移る壮大な「族長物語」が次章(旧約聖書、創世記、12章〜50章)から幕を開けることになる。
 人は制御がきかなくなった。人は神の思惑を超えて勝手に増殖していく。

 ならばどうするか。既に世界中を洪水で埋め尽くし人類の殲滅を図る計画は挫折した。人はノアの力を借りて生き延びている(旧約聖書、創世記、10章)。

 神の姿に似せて創られた人は、どんな試練にもしぶとく生き残っていく。それならば人を集団から隔離するしかない。人が人を理解できないようにしたならば、人は神を超えるようなおぞましい力など持つことを望まなくなるのではないか。

 ノアの箱舟以降、人は一つの言葉を使って話していた。「他人の言葉を理解できないようにする」、このアイデアに神は密かにほくそ笑んだことだろう。これ以上ベターな解決はないと内心自負したかも知れない。

 人が他人を理解できないようになることで、神に届こうとする浅ましき人間どもの目論見は朝日の前の露のごとく消え、神に仕える従順な下僕として地に満つるはずであった。

 それからどれだけの時が過ぎたことだろうか。人は様々な手段で神の封じた言葉の試練を乗り越え、その強大な掟に逆らおうとした。

 人は今や神のみに委ねられていると考えられていた生命科学、命の領域にまで足を踏み入れようとしている。出産や人口の政府によるコントロールはSFの世界では珍しいことではないが、中国の一人っ子政策(生涯に一人しか子供を作ってはいけない)は産み分けの技術を発見したことで男子出生偏重を作り出し、結婚できない男の大量発生を現実のものとした。更にまたES細胞やクローン技術の研究は、生命そのものの創造へと進もうとしている。

 欲望こそが創造主が人に与えた余りにも大きなミスであった。足るを知り、満足する心を人は始めから持ち合わせることはなかった。欲望は正義と結びつくことで圧倒的な力を持つことになった。

 見るがいい。今や人は、命すら統計と言う数の中に押し込めることで、その重さも意味も理解から遠ざけようとしている。
 次の一手、それは人間同士による自滅へのプログラムである。大量破壊兵器、環境破壊、飢餓と肥満の並存、宗教や経済の対立・・・・、神はバベルの塔からも学ぶことのできなかった人類に対して、人間自らが己の力で破滅していく自滅のプログラムを密かに仕組んだのかも知れない。いやいや、「言葉を違えてお互いを理解できない存在にすること」そのものの中に、こうした自滅へのプログラムは予定されたものとして発動の時を辛抱強く待っていたのかも知れない。




                          2006.8.1    佐々木利夫


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バベルの塔の教訓