子供を殴ったり食事を与えないなど、育児放棄をめぐる事件がこのところ目立つようになってきている。ネグレクトという言葉があるくらいだから、ことは日本だけの問題ではなく世界に共通しているテーマなのかも知れない。

 事件が起きるたびに親(特に母親)と子の絆という精神性が強調され、「わが子なのに」とか、「自分の腹を痛めた子じゃないか」などと言った肉親としての責任のなさを糾弾する意見がすぐに巻き起こる。

 もちろん事件は子供に対する一方的な迫害であり、時にその迫害は迫害を受けた子の死となって表われるなど、加害者は常に親であることがこうした事件の特徴である。そして親はそうした加害の事実を常に否定し、子供に行った様々な行為はすべて「子供のためを思う躾け」に基づくものであるとするパターンもこうした事件の一つの傾向を示していると言ってもいいかも知れない。

 映画にしろ小説にしろ、昔から親と子の様々な確執を巡る物語は多い。比較的多いのが捨てたと自責する母、捨てられたとの思いにしがみつづけ親を恨む子供を巡るものである。こうしたそれぞれの思いは様々な事件を生み、それがストーリーになっているのだが、解決のパターンはなぜか親と子の絆、肉親の情愛が強調され、「自らの意思で子供を嫌ったり捨てたりする親なんてこの世にいるはずがない」という友人や素人探偵の涙溢れる説得で大団円を迎えることが多い。

 私は男だから、母としての気持ちの理解などそもそもできないのかも知れないけれど、特に母と子の対立の場面では、そうした肉親としての精神性による解決ばかりが強調されているような気がして少し気になる。

 なぜかと言うと、私自身の経験がそんなに安易な問題ではないのではないかと教えてくれているからである。他人を殴ったことなど一度もないと自負している私だが、実はこれまでにたった一度だけ我が子に手を上げたことがある。原因が何であったか今ではすっかり忘れてしまっているけれど、手を上げたその時の気持ちは数十年経った今でも苦々しく思い出すことがある。

 手を上げたのは単なる「怒り」だったからである。しつけとか教育とか矯正などを考えて行動したものでも、子供の将来のことを考えての行動でもなかったのである。紛れもなくその手を上げるという所作は、衝動的な怒りの感情に基づくものだったのである。

 もちろん親と子の意見が対立したとき、その対立に対する子供の言い分はすべて単なるごまかしか言い訳にしか過ぎないと思い込み、親としては自らの意見こそが正しいと認識する。だからこそ、そうした手を上げるという行動に出たのだとは思う。

 でもその時の私の気持ちはそんなに理性的なものではなかった。特に親と子と言う経済力においても現実的な力においても優位に立つ親からの行動であるという意味において、手を上げるという行為は単なる問答無用の力による支配、感情の爆発による弱者への攻撃でしかなかったのである。

 だから私は、毎日のように報道され、肉親の情愛が強調される児童虐待などの事件を聞くたびに、ふと、「そんなに親と子は本質的、本能的に理解がつながっていると決め付けていいのだろうか」と疑問に思ってしまうのである。

 母親が赤ん坊を可愛がるのは母性本能のなせるもの、つまり生物としての基本的な本能だと思われているが、本当にそうなのだろうか。人も動物も赤ん坊が赤ん坊らしく生まれた時、例えば子犬も子猫もはたまた子ねずみでさえも赤ん坊としての要件を備えている限り誰もがその対象を可愛いと感じるのは、親だからではなく人がそう思うように作られているからなのではないのか。
 逆に言うなら、赤ん坊そのものが誰にでも可愛く思われるように生まれてついてきたからなのではないだろうか。

 そうしたことを「媚(こび)」だなんて表現してはいけないのだろうが、もしかすると赤ん坊は本能的に親から嫌われる場合のあることを察知し、それを避けるために可愛く生まれ、可愛い仕草を続けることで育児と言う生き残るための保護を自らの力で獲得しようとしているのではないだろうか。

 生物は進化を重ねるたびに親による長期の養育を必要とするようになった。特に人間の赤ん坊などは完全な無防備状態での誕生であり、成人を何歳と考えるかは国民性による部分も多いが我国では20年間も保護対象としている。特に幼児期は保護者が関与しない限り自力で生き残ることなど不可能である。

 だから赤ん坊は可愛く生まれ、時に無意識にしろ微笑に似た表情を浮かべられるような進化を自らの生き残りのためにも獲得しなければならなかったのではないのか。

 私は親と子の絆であるとか情愛といった感情を否定するのではない。そうした精神性は事実として存在するとさえ思っている。ただそれは生物として「始めから組み込まれているもの」なのではなく、「互いに生活していく中で形成されていくもの」なのではないかと思っているのである。

 親と子の関係は母性も含めて種としての本能的、遺伝的に組み込まれたものとして捉えるのではなく、「無」から少しずつ形成されていくもの、つまり親子の関係といえども「身に着けていくもの」として理解することのほうが、現在混沌としてきている親子関係の解決につながっていくのではないかと思っているのである。

 ネグレクトの存在を承認したり弁護したいというのではない。ただこうしたネグレクトにまで発展してしまった親と子の関係を、当たり前に成熟した大人が自分たちが経験してきた当たり前と信じられている親と子の関係を基にして判断したのではどこかで間違ってしまうのではないだろうかと思うのである。

 我々が成熟していると信じている親子関係にあっても、そうした成熟した関係になるまでには様々な葛藤が親と子にあったはずである。そしてそうした葛藤の中には、他人に抱いたと同様な「子供を嫌いになった事実」、「親を否定しようとした事実」が一時的にせよ含まれていたと思うのである。

 そうした「真剣な嫌い」を味わい、反芻し、克服することで、人は少しずつ我が子、我が親としての関係を作り上げてきたのだと思うのである。

 ではどうしたらそうした「嫌いであること」がネグレクトにまで進んでいくことを止められるのか。その答えはそんなにたやすくは見つからないとは思うのだが、あたかも孤立することが当然のような現代の生きたがそうした意識を助長していっているのかも知れない。

 親と子の関係は子にとっては最初でしかも最少単位の他者との関係である。親にしたところで他者とのかかわりは自分が子として生まれたときに親との関係から始まったはずである。

 互いが他者であることを抜きにして親子を語ることはできない。他者である別々の個としての親と子が真の親と子になっていくためには、そこに「互いが他者であることの理解」が必要なのであり、そのことを先輩である他者、つまり祖父母や兄弟といった家族であるとか近所や地域と言った親子を取り巻く存在が、新米そして未成熟な親と子を見守っていく姿勢が必要だったのではないのか。だからこそ原始の時代から人はそうした環境を必要なシステムとして作り上げてきたのだと思う。

 だが人はそうした団体のシステムを放棄し、孤立した生き方を選ぶことを決断した。そうした時、孤立する親と子に向かって、「親子は一つ」であるとか、「理屈なしに理解しあえる存在」であるなどと言った神話をぶつけることは、むしろ理解を遠ざける結果にしかならないのではないのだろうか。

 テレビなどで隣近所の住民が、自らの無関心を隠したまま訳知り顔に親子の情愛を強調する姿、時には番組の進行する司会者までが無批判に親としての無責任さに同調している姿に、ふとやれ切れなさを感じてしまうのである。

 最近、四国の老人介護施設と助産施設が複合された施設をめぐるドキュメント番組を見た。生まれた赤ちゃんが老人たちに囲まれて「かわいい、かわいい」と皆から抱かれていた。老人はその赤ちゃんの親ではないし、親のその親でもない。それでも赤ちゃんはとてつもなく可愛いのである。

 そのテレビを見ながら、人は「可愛いね」といわれた数だけ優しくなり、「可愛いね」と言った数、思った数だけ豊かになれるのではないか。それは親子だけではなく、他者との折り合いもふくめた基本的な培養土としの役割を持つのではないか。そんなふうに感じた夏の夜であった。



                          2007.8.5    佐々木利夫


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母性本能への錯覚