コンピュータ世界
  
 忙しいことが正義にすらなっている現代、その現代を生きるのにコンピュータは欠かせないと人は言い、理解し学び挑戦することこそが現代人の役割だと誰もそのことを疑わない。もちろん、その意味するところは分かる。携帯電話や車、テレビ、洗濯機にも、恐らく耳慣れた小さなポケットラジオにだってコンピュータは間違いなく組み込まれているだろう。

 だがコンピュータを知らない者にとってコンピュータは無縁である。コンピュータなどなくてもいいと言うのではない。知らなくてもいいと思うのである。

 例えば携帯電話。この小さなマシンは、いつでもどこでも電話を受けたりかけたりすることができる。今や写真もメールも、望むなら音楽も自在である。通信と放送の融合などと良く理解できない世界が始まった。私は携帯電話を持っていないから利用できないのであるが、ワンセグと称するテレビ放送を受信するシステムがこの4月から一部の地域で始まったという。

 携帯電話に組み込まれているコンピュータ技術は、恐らく我々には想像もつかないほど多様なものであり、私レベルの知識で表現するなら想像を絶するものだと言ってもいいであろう。
 だが多くの人はコンピュータを理解してはいないのではないかと思う。それはそれでいいのである。ブラックボックスの中味を知らず、場合によっては理解していなくたって生活できるのである。

 私の子供の頃に真空管ラジオがあった。その理屈を知らなくたってコンセントにプラグを差込み、アンテナ線を張るだけで準備は整うのである。あとはスイッチを入れバリコン(周波数合わせのダイヤル)を回して希望の番組を捕まえることだけ知っていればそれでよかったのである。

 その頃コンセントも電池も必要のない鉱石ラジオと称するマッチ箱よりも小さいラジオ受信機があった。小さなダイヤルを回して放送局を探し、イヤホーンで音声を聞くだけの装置だったが、どんな理屈で音が出るのか当時も数十年を経た今も理解していない。それでもかすかな音がイヤホーンから聞こえてきたのである。

 かく言う私もパソコンに向かって原稿を打ち、ホームページ用の言語に変換してこうして公開している。仲間同士の情報でしかないが、この歳になって自力でホームページを立ち上げている者はそんなに多くはないだろう。

 ならば私はコンピュータを理解しているのか。もちろん、まるで知らない人より少しは知っているなどと屁理屈くらいは言えるのだが、実はコンピュータなんぞ知らなくたってパソコンは動くのである。

 札幌から東京へ行く。恐らくほとんどの人が航空機を利用するかJRの特急を使うだろう。そして恐らくは現代では乗車券の購入手続きも含めて航空機も特急車両もコンピュータのかたまりである。でもそんなこと知らなくたってJRの緑の窓口で、もしくはそれこそインターネットで予約して乗車券・指定券を購入し、夕方の北斗星に乗車すれば明日の昼前には上野駅へ着くのである。コンピュータなどまるで知らない人を乗せて列車は苫小牧、函館、そして津軽海峡下の海底を抜け、青森、盛岡、仙台をひた走って東京上野駅まで運んでくれるのである。

 最近のテレビ番組である。ゴミの量を自動的に判断して吸い込む力をコントロールする掃除機が商品化されたという。
 そのことは分かる。でも私は思う。だからなんだって言うのだ。いかにももっともらしく解説してはいるけれど、そんなこと私の目や手足を使うほうがしっかり確実である。私の事務所にはそもそも新式どころか旧式の掃除機すらない。ゴミが多ければ箒やモップを数多く動かせばいいだけである。それでも汚れが残っているなら、後は濡らした雑巾の出番だけの話しである。

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 そんなことをぐずぐずいくら並べたって、それは単にコンピュータを知らないことを改めて確認しているだけであって、コンピュータなしで生活できないことは現実のことなんだと人は言うかも知れない。
 でも本当にそうなのだろうか。真空管ラジオの話をした。だが、それでは当時その中味を理解していたかと問われれば今使っているパソコンとほとんど違いはない。
 リモコンを使ってオンオフからチャンネル切り替えまで自在にあやつり日常生活に不可欠になっているテレビだって、どうして映るのかなんて聞かれたらまるで分かっていないのが本音である。

 正確な数字として覚えているわけではないが、人類史上の世界中の全科学者の90%以上が現在生存しているという話を聞いたことがある。
 知識はいつか遠く理解できないものになった。それはそれぞれの分野が専門化されたせいだと割り切ってしまえばそれまでだけれど、どこか違っているのではないだろうかと囁く声が聞こえるような気がしてならない。

 自身の無知を承知の上で、そして破天荒を承知で言うのだけれど、もしかしたら多くの人が理解できないということはそうした理解できないままの状態を許容すべきでない状態を示唆しているのではないだろうかと思う時がある。理解できるように人を教育すべきだというのではなく、逆に解明などしてはいけないのだと事実が教えてくれているのではないだろうかと言うことである。

 こんな言い方は、理解できない己の実力を省みることのない傲慢な発言ではないのかと思ったりもする。こんな幼稚な屁理屈など簡単に論破できるだろうことは自分でも分かっている。
 だが、分からないことは分からないままそっとしておくことが理にかなったことであり、分からないにもかかわらず、そのことに乗っかるようなことを人はしてはならなかったのかも知れないなどとふと感じることがある。

 今や「情報の非対称」(情報が片方に限定されていること)は当たり前のことになった。非対称とは一方通行でもある。理解されないことを承知でそれを情報として流すことである。

 最初に言った繰り返しになるが、そうした分かろうとしてはいけない分野に人はひたすら闘いを挑み、その見返りとして「忙しさ」と言う宝物を獲得した。
 そして人はその「忙しさ」の中に、成功、正義、報酬、生甲斐、平和・・・・、そうしたたくさんの重さを詰め込んだ。

 知ることが知識を増やし人を豊かにするのだと私たちは教えられ、そのことは信仰と呼べるほどにも体に染みこまされてきた。知ることは「学ぶ」ことだと教えられ、そうすることを疑ってはならない高みにまで持ち上げてきた。

 そして今コンピュータだけに限らない。世界の知識は人の知る範囲をあっさりと超えた。そうなるや否や人は突然知ることを自ら放棄した。理解できないものとして始めから理解しようとする努力を放棄した。そしてその放棄は際限のない暴走へと結びつくような危うさを持ち始めている。
 理解できる範囲に人は止まるべきではないのかという意識すらなくした人たちは、自分たちが乗っている車にブレーキがついていないことにすら気づかないまま、車窓を流れる景色にはしゃいでいる。



                     2006.04.05    佐々木利夫



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