私のキューバ危機
  
 1963年11月22日、稚内市。テレビ初の宇宙中継は歴史的偉業とも言える記念すべき電波に、あろうことかケネディ米大統領暗殺の映像を乗せることになった。
 その一年前の7月、夕張と呼ばれる小さな炭鉱町で生まれ育ち札幌で一年研修を受けただけで、北海道と言ってもこの二つの場所しか知らないこの身に、生まれて始めての転勤が命ぜられた。22歳独身、夕張から日本最北の地稚内への胸躍る転勤であった。そしてこの歴史的とも言えるケネディ暗殺事件はその赴任先で同時進行したのである。

 2年間勤務して分かったことだが、札幌・稚内間は毎日夜行列車が走っていた。だから赴任するにはそれに乗るのがベターなのだろうが、なにしろ始めての転勤だったせいか旭川に一泊し、それからトコトコ国鉄と言われた時代の鈍行列車による稚内着であった。

 当時の稚内は底引き網を中心とする漁業の街であったが、利尻・礼文島への中継地であり、歴史的にはかつての樺太航路の名残りの岸壁を持つ港町、そして街の背後の丘陵に巨大なレーダーが威容を誇るアメリカ軍基地の街でもあった。

 さて話を表題に戻そう。キューバ危機とはもちろんアメリカとキューバの問題である。だが、その背景にはソ連(現在のロシア)が極秘裏にキューバにミサイル基地を建設中であったという事実がある。だからこの危機はまさに米ソ対立の構図そのものだったのである。

 ミサイルを積んだ船がカストロ率いる共産主義国キューバへ向かっている。キューバに設置されたミサイルは当然にその先端をアメリカへと向けることだろう。1962年10月22日、米大統領J.F.ケネディはミサイル搬入を海上封鎖で阻止するとの声明を出し、次いでキューバから攻撃があった場合はソ連からの攻撃とみなして報復するとも宣言した。まさに米ソは真正面から衝突することになったのである。

 稚内・・・・。基地とは言ってもレーダー基地だから、街中を戦車や軍隊が行進しているわけではない。天気のいい日には、近くの丘を利用して整備されている稚内公園などで若い軍人夫婦が子供を連れてピクニックにきている姿が良く見られるなど平和な風景が続いていた。

 やっと歩けるような可愛い、まさに人形のような女の子が、これまた映画で見るようなスタイルのいい美しい母親と英語でペラペラ話している姿は、英語の授業がもっとも不得意であった私には信じられないような違和感を与えたことは事実であるが、それとても基地というイメージとはかけ離れたのどかな情景であった。

 だがそうした昼のたたずまいとは裏腹に、夜の繁華街はまるで違った様相を見せる。数多い飲み屋の中にはGToff limits(ジーアイ オフリミッツ、Government issue、「アメリカ兵士の俗称」立ち入り禁止)の札を掲げている店もあったけれど、多くの店には制限がなく時には客として同じカウンターに並ぶことも珍しくはなかった。

 また、この頃けっこう人気のあったビリヤード(今のようなポケットと呼ばれるものではなく、白玉2、赤玉2をぶつけてそのぶつかった組み合わせで得点を競うものだった)の店にもたむろしており、互いにゲームをしたことこそなかったが、兵隊さんとfree tax(免税)の表示のある外国タバコと日本タバコを交換して悦に入っていたこともあった。

 更にノシャップ岬に近い裏ぶれたバラック建てのピンクの蛍光灯の光が外へ漏れ出ている飲み屋街は、軍人相手のいかがわしい店だとの噂もまことしやかに伝えられていた。

 キューバ危機の正面衝突が、テレビやラジオでどんな風に報道されていたかどうかよく覚えていない。ただ、少なくとも我々の仲間はそんなことをあんまり気にもかけることもなく、いつもどおり盛り場で安酒を飲み歩いていた。
 忘れもしない銚子三本100円の居酒屋や、当時流行っていたバーテンの仕切るサントリーバー、ニッカバーと呼ばれるスナックのカウンターの片隅にたむろして、オンザロックだのハイボール、時にはジンフィズであるとか「青いさんご礁」などのカクテルにうつつを抜かしていた。

 そんなある日、いつも賑わっている夜の街から突然外国人の姿が消えた。ネオン街をうろつく姿も、いつもの居酒屋からも、馴染みのスナックからも、ビリヤードの店からも忽然と外人が消えたのである。
 そのことがキューバ危機によるものだということはすぐに分かった。外人が消えたのではなく、軍人が消えたのである。恐らく全部の軍人に外出禁止と待機の命令が出されたのだろうとすぐに想像がついた。

 ここは稚内である。そして海を隔てた目の前にはソ連領の樺太を肉眼で見ることができ、しかもここはレーダー基地である。現代の戦争が肉弾戦ではなく情報戦であり、しかもミサイルと言うボタン一つで操作できる大量殺戮兵器による戦いであることくらい誰もが承知している公知の事実である。なんたって、キューバへのミサイル搬入やその阻止という、そのこと自体がそうした事実を如実に示している。

 ミサイルが動き出せば、その動きを察知するのは世界中に張りめぐらされているレーダ網であろう。しかもここはソ連が目の前にある稚内であり、かつ、レーダー基地である。
 イザという事態になれば、真っ先にそうした基地が攻撃対象として狙われるであろうことは常識ではないのか。

 そうした危機を街の人や私たちがどこまで真剣に捉えていたか、今となっては忘れてしまっているが、いつも溢れている外人の一人もいない繁華街はどこか異様であり、「稚内、危ないんじゃない」などと仲間と冗談めかして話しながら早々に独身寮へと引き上げた記憶がある。

 結局この非常事態は、ソ連のフルシチョフ書記長がアメリカの海上封鎖声明から6日後の10月28日にミサイル撤去を表明しアメリカが封鎖を解除したことで回避されることとなった。そしてこれを契機に米ソは急速に接近し、その後のいわゆる「雪解けムード」へとつながっていくことになる。

 ただ後日、この危機について解説された本を何冊か読んだことがあるが、「稚内そのもの危機」という側面には触れられていなかったものの、危機そのものは戦慄を覚えるほどの「本当の危機」、「現実の危機」だったということが分かり、あの時の恐怖を改めて思い出すこととなった。

 まさに米ソによる第三次世界大戦の危機目前と言ってもいいほどの危うさであり、このままケネディに政治を任せておくなら世界が危うくなると判断した米政府中枢要人の陰謀による仕組まれた大統領暗殺事件だったという噂が今でも根強く信じられているほどにも、キューバ危機は目前に迫った危機だったのである。

 そしてそうした渦中に私は確かにいたのである。



                     2006.6.02    佐々木利夫



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