神を信じている訳ではないから、神をテーマにするのはいかにも知ったかぶりをひけらかすみたいで少し気が引けるけれど、神と言う範疇には、「人間では決定できない部分を委ねる」という意味に使われることもあるのではないかと考えている。

 だから宗教の極限としての神というほどの重さではなく、人に対しては許容できないけれど、その限界を超える力の存在を神と呼びたいという心の動きは許されるのではないだろうか。

 それはもしかすると神への責任転嫁なのかも知れない。人が決定できないこと、決定してはいけないこと、そうした領域を人間が勝手に作り上げ、そうした領域における決定そのものを神の責任として人自らが負わなければならない責任を回避しようとしているのかも知れない。

 そうした意味で最近のクローン技術(ES細胞や着床前遺伝子診断など)は、神と人間の領域をあいまいにしている最たるものだと考えていいのではないだろうか。

 「人にはどこまで傲慢が許されるか」というテーマは、恐らく答えのないものなのだろうが、科学が人の命を扱うようになってきて、そのコントロールさえもが人為的に可能になってくる時代は、まさしく神との領域にまともにぶつからざるを得ないと言う現象を突きつけてくる。

 だがそこで「それは神の領域だ」という言葉で、なんでもかんでも説明してしまおうとする試みはどこか間違っている。恐らくそれは私の頭の中に「神はいない」という、なにか固まりみたいな信念が渦巻いていて、そのことがそうした神への責任転嫁みたいな意見に反発してしまうのからなのかも知れない。

 私はどんな判断でも、その決定を神に委ねてはいけないのだと思っている。自分で決められないと思われる事柄に対して、その決断する方法には様々なものがあろう。
 場合によってはおみくじを引いて、大吉だったら右、それ以外だったら左と決めることだってできるし、そのほか偶然に支配される日常の様々に結論を委ねてしまうことだって可能である。

 ただそうした選択と言えども、それは人が選んだという意味において神による決定なのではなく、決断者の責任としてその人自身が覚悟をしなければならないことであろう。

 だからこうした様々の現象を、「それは神の問題だ」としてタブー視してしまうのは、ことの是非の前にそうした事実と言うか手段が人間の手の中に実現してしまった以上、知らん振りをすることなど許されないのではないだろうか。

 にもかかわらず「神は存在する」ことの否定は、私の意思に関わらず難しいことだと私自身も考えている。それはまさに信じている心の総和なのだから。

 中東やパキスタンなどの民族間の宗教に根ざした果てしない争いを見るにつけ、改めて神とは何かを問われているような気がしてならない。
 最も安易な神の定義は「正義」である。そのことで宗教に基づく対立のすべてが説明できるような気さえしている。もちろん説明できることと解決できることとはまったく別個のものではあるが、説明に共通の地盤があれば、そこから解決の道を探っていくことは可能になってくるのではないだろうかとも考えているのである。

 もし神が正義なら、まさに多様な正義こそが混乱の根元にあるのだから、一面、物事を更に複雑化する要素もないではないが、そこへ踏み込むことで神との妥協(もしかすると神と神との妥協)を図っていくことができるのではないかと考えているのである。


                        2006.3.12    佐々木利夫


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神との妥協