人はやっぱりエネルギーを使い過ぎていると思う。クロマニヨン人にまで遡る必要はない。せいぜいが江戸時代や明治の多くの人たちが、仮にいくら木材を伐採して暖をとったり、菜種油を絞って行灯の灯りにしたり、そしてそれが無駄遣いと言われるほどの使い過ぎだったとしても、そのことによってエネルギーの浪費であるとか地球温暖化などの話しなど出るはずがない。牛のゲップが息の中に含まれるメタンを空中に放出するので、それもまた地球温暖化の要因の一つになっているとする話も聞いた。その論理にあえて異論を唱えようとは思わないし、場合によっては牛の数が人口よりも多い町や村が存在することも事実だろう。だが、飼育頭数が増大した原因の多く(全て)は、人間の肉食化や乳製品の消費拡大によるものであり、結局は飽食のつけであろう。

 人は無駄遣いをすることを文明であり、豊かさなのだと錯覚した。それがすべての誤りの根源である。今ある経験や存在を、昔から続いてきたのだから努力なしでも手に入れられるのだと思い込み、「生きることなんてチョロいもんさ」と思い込んで、思うことがとりあえず思い通りになること、たとえ金がなくて思い通りにならないのならば、マチ金の戸を叩けぱいいと思い込むことで人生を、しかも己の人生を馬鹿にした。

 飢えなんて考えもせず、ハンバーガーを食いペットボトルからミネラルウォーターをラッパ飲みしながら安全に道を歩けることを、そして勉強することが厭だから学校へ行かないことなどを正々堂々と主張できることを、更には二十四時間コンビニで買い物ができることや、日曜日には権利として会社を休めることなどを当然のこととして、気ままさを日常の中に埋没させてきた。

 石油の埋蔵量は有限で、あと○十年で底を尽くなどと言われてから久しい。統計的にはオイルストーンの採掘技術の進歩、地球規模での石油埋蔵の仕組みなどが段々に分かってきて海底にまで油田の開発が進んできたことなどなどから、逆に埋蔵量は増えてきていると言う人もいる。ただ、宇宙船地球号という視点から考えるなら資源が有限であることに違いはないだろうし、埋蔵量の増加がここ数年頭打ちの状態にあるとの報告もあるから、有限であることの証拠が崖っぷちにまで近づいていると考える必要があるのではないだろうか。

 もちろんエネルギー資源は石油だけではない。シベリヤのツンドラ地帯や海底の奥深くには凍りついたメタンハイドレートが眠っていると言うし、原子力、風力、燃料電池、地熱、潮汐力、食用油などによるガソリン代替油の製造などなど、さまざまな石油によらない将来のエネルギー開発が模索され、少しずつ実用化されている。原子力など、その拡大なくしてエネルギーの将来はないとさえ言われるほどに重要視されている。

 ただそれにしても、「私が生きている間は大丈夫」だから、あんまり深く考えないようにしようなどとノー天気さを振りまく輩はけっこう多い。京都議定書からアメリカが離脱したのはアメリカの経済発展に支障があるからだと伝えられているから、そうした「私だけ良ければいい」という考えは個人のみならず世界中に組織としても蔓延していると言ってもいいだろう。
 ただ、そのアメリカですら、背景に世界的な原油高があるにしろ、ブッシュ大統領は今年1月の一般教書演説の中で「米国は石油中毒」だと述べた。

 今ある快適な生活を維持するための自己利益に拘泥する考えも分からなくはないけれど、そうした身勝手なエネルギーの消費が、利益の追求であるとか必要や快適といった限度を超えて無駄遣いになっているとしたらその自己利益の意味をどう理解したらいいのだろうか。
 もっと極端に言うなら、現代の生活はそうした無駄遣いに気づかずにその無駄遣いそのものを豊かさの象徴なのだと錯覚しているだけなのではないだろうかと私は思い、そのことになんだが空恐ろしささえ覚えるのである。

 そうした恐怖を私は物のあふれている現代の様々な場面に感じることができる。人はもしかしたら心の乏しさをタンスからあふれる物であるとかやみくもに浪費することで埋めようとしているのだろうか。

 子供の頃、そんなに物が欲しかったかと問われれば、兄弟が多くて着るものも履くものも不足が当たり前だったし、継ぎの当たっている衣服はもとより兄や姉の持ち物をお下がりとして弟や妹が引き受けることはなどは疑問のない当然のことだった。
 履いてる長靴はあちこちゴムのりでべったりと穴を塞がれたものだったし、それ以前に家庭用の鍋だって傘だって、はたまた着る物の再生利用にだってそれを専門に請け負う内職や職業がきちんと社会に組み込まれていたものだった。

 そうした背景の基本には貧しさがあったとは思うのだが、子供心になんでもかんでも新しい物が欲しいなどと思う気持ちがそんなにあったような気がしないし、そうしたかつての時代が既に人生の一部としてこの身にしみこんでしまっているからなのか今でもそんなに物への執着は強くないような気がしている。

 食べるものだって同じような状態で、ひもじさは確かにあった。見知らぬ家の畑からこっそりキュウリを盗んで喰った記憶もあるし、肉は正月の雑煮の中に僅かに入っていただけのような気がする。砂糖も飴もないし、ましてや果物など奇跡の食い物である。今でもゆで卵丸ごと一個とかバナナ一本などに贅沢とか満足などが溢れるほど詰まっていると感じるのは、かつての貧しさの記憶のせいかも知れない。
 だがそのことで他人の弁当や隣の食事などを羨んだり、持っていけない遠足のおやつにひがんだなどということもなかったような気がする。

 大根を皮まで料理すること、葉っぱだって味噌汁の具したり色々加工することで使い切るなんてことは、テレビの料理番組のふくよかな料理教室おばさんが、したり顔で「こうすれば材料の無駄をなくすことができますね」とか、「地球に優しい調理方法ですね」なんて話す以前の問題であり、空腹を訴える子供たちと食糧不足からくる、母親自らが当然のこととして発見した必要な経験だったのである。

 もちろんどんなに貧しい時代だって、その中での貧富の差はあった。貧富の差はそのまま子供の生活にもまっすぐに伝わる避けようのない事実である。そのことは私の小学校時代に写した年一回の集団の学年写真にもはっきりと見ることができる。一年生、二年生、男の子の何人かはわらじ履きである。運動靴どころか履くものにさえ不自由していた時代がここに事実として存在していたのである。

 だからと言って金持ちの服装や履物に羨ましいなどと思った記憶はない。それはきっと多くの友達が自分と同じく貧しかったことに原因があるのかも知れないけれど、それにしてもなぜか他人を羨やむような記憶がないのはどうしたことなのだろうか。

 羨やましさが富へ、更には成功へのチャレンジ精神を鼓舞する動機になるとする理屈の分からないではないけれど、今に満足するという気持ちもまた一つの落ち着く先を示しているのではないのか。

 少し前の話になるけれど、ミネラルウオーターが流行っているというテレビ番組を見た。輸入も含めて銘柄数は千種類にも及び、宅配を望む顧客も多く、中には一本千円という水もあるという。
 色々な種類の水を揃え、その水を目玉商品にすることで軽食を楽しむ人が集まる店もあるというし、自宅に7種類もの水を宅配させて飲用、炊事用、化粧水代わりなどなど、それぞれに楽しんでいるという家庭の話も紹介された。

 まさにこれは飽食と同じである。飽食が別な意味で平和であることの代名詞たる側面を持っていることを否定はしない。だが寄りかかり過ぎることの危険の兆候を、肥満や生活習慣病の多発、増加しづづけるゴミの山、果ては地球温暖化などなど、いたるところに見ることができる。

 豊かさもまた宗教たりうることを人は知ったのかも知れない。努力が必ずしも報われるとは限らないこと、ひもじさからもまた抜け出せる保証のないことが、あたかも始めから決められているような悲惨な生活が事実として存在している下では、結局人は救いを神に求めるしかなかったとも言えるだろう。

 腹いっぱい喰えることは新しい神となった。美しい衣服、暖かい住まいはそれだけて一つの「癒し」である。目に見えぬ神、来世にしか救いを与えられない神の存在よりは、満腹することのほうがいかに現実的な「癒し」になったことか。その片鱗は、温泉につかって「極楽、極楽」と呟く満足さの中にも見ることができるだろう。

 かくして人は新しい宗教を発見した。豊かさこそ救いであり、豊かさを追い求めその中にひたることは更なる「癒し」を人に与える。

 神がその力を失っていく過程とは、まさに世界が産業革命を経て、近代貨幣経済へと歩を進めていく過程と同じだったとも言えるのではないだろうか。

 戦争の方法が人対人から、武器対武器へと変わって行き、好むと好まざるとにかかわらず大量殺戮が現実のものとなった。
 時代はあらゆるものを個から大量(マス)へと変えていき、僅かに残されていた個と個に関わるあるかないかのゆとりさえもが、隙間産業だの社会のニーズだのと理屈をつけられて埋められようとしている。人は祈りを忘れ、生きる価値を豊かさの中に求めた。

 「アウシュビッツに神様はいませんでした」。昨年暮れに放送されたNHKテレビでの誰かの言葉である。どんな放送内容だったのか忘れてしまったけれど、なぜかこの言葉だけが耳について離れない。
 「神は死んだ」と言ったのはニイチエだったけれど、どこかで人は自らの足跡を振返ってみる時代に来ているのかも知れない。

 それは「神との妥協」なのか、それとももっと冷たく言い放つなら「豊かさや拝金との妥協」なのか、それは二元論で割り切れる問題ではないのかも知れないけれど、そこまで現代人は追いつめられているのではないかと言う気持ちを、飽食にも満足せず、更なる渇きを訴えて尽きない欲望に身を焦がしているかのように見える今の人々に少し知らせてやりたいのである。




                            2006.1.21    佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



物のあふれている時代